第四話 第一章 「足元見やがって……わかったよ! 払ってやらあ!」

まずズボンの右のポケットに手を突っ込んだ。 何も入っていない。 アルトは持っていた紙袋を右手に持ち直して、今度は左のポケットを探った。 やはり何も入っていない。 程よく太陽の恩恵を受けた血色の良い顔が、さっと青くなる。 両ポケットを再三、最終的に裏返してまで念入りに探すが、何も出てこない。 おもわず「うそだろ」と震えた声が漏れる。 そんなところに入れた記憶なんて全くないのにも関わらず、 藁にも縋る思いで持っていた紙袋の中を覗き込むと、後ろから衝撃を受けた。 「アールトちゃん!」 「うわ!?」 もともと丸い瞳をさらに丸くして、振り返ると、ミィレがしがみついていた。 安堵と同時に理不尽な怒りが込み上げてくる。 「びっくりした! 何するんだ!」 怒鳴りつけるが、ミィレは何も言わない。 表情豊かで笑顔がデフォルトのような彼女にしては珍しく真顔。 そのまま数秒、なにかを吟味するかのように真っ直ぐ見つめられ、その視線に耐えられずアルトはたじろいだ。 「……な、なんだよ」 やがてミィレは眉を下げて可哀想な子を見るような目になり、眉をハの字に下げた。 「アルトって、"ちゃん"付け似合わないね……」 やけに真剣に考えているから何かと思いきや、至極くだらないことだった。 「うるせえ! ほっとけ!」 「アルト"くん"の方がまだいいよね」 「ぶんなぐられたいのか」 「きゃーひっどーい」 青筋を浮かべるアルトに、ミィレはさして怖がった様子もなく棒読みで悲鳴を上げた。 アルトが呼び方一つに過剰に反応してしまうのは、 もちろんミィレの確信犯的なタイミングや言い方のせいもあるが、彼女自身の被害妄想のせいでもある。 そんな被害妄想を抱くくらい、男に間違えられるという事がそもそもの原因なのだ。 感情がこもっていないとはいえ、悲鳴を上げた割にはミィレは離れる様子はない。 後ろから抱き付いた体勢をキープしたまま、アルト越しに前を見た。 「で、入らないの?」 当然の疑問にアルトはタラリと冷や汗を流す。 彼女が立ち往生していたのは、生活拠点であるシェアハウスの前。 そこでまごまごしていては、はっきり言って不審者と間違えられても仕方がない。 アルトは視線をそらしながらもごもごと言う。 「……それが……その……鍵が」 「ああ、まだ鍵、渡してなかったんだっけ? 多分ソフィアとジェンいるから鍵なら開いてるよ?」 ミィレはアルトを解放すると、扉に駆け寄った。 アルトが「あ、いや……」なんて口ごもる声を無視して扉はあっさりと開く。 「ね?」と首をかしげて、扉が開いてもなお動こうとしないアルトに腕を絡めた。 「ほら、入ろ!」 「実は、その……」ともう一度理由を話そうとしたが、すぐにぐっと口を閉じた。 望みは薄いが、万が一紙袋の中や財布の中に入ってたら、ただただ恥をかくだけだ。 それを確かめてから言っても遅くはないはず。 その一縷の望みが頭によぎったがために"鍵をなくしたかもしれない"というその一言が言えないまま、 未だに慣れないシェアハウスの扉をくぐった。 ミィレが言った通りジェンもソフィアもまだ中にいた。 玄関入ってすぐの共有スペースでまったりとお茶を飲んでいる最中だった。 まずソフィアが彼女たちの帰宅に気付いて、お茶を淹れなおそうとしていた手を止める。 「あら、おかえり」 「おかー」 続いてお茶を入れてもらっていたジェンが振り向きもせずに言った。 アルトはその「おかえり」という言葉にまだ慣れていない。 必然的に「ただいま」という言葉にも。 こちらに来て一人で暮らし始めてからもそうだが、実家でもほとんど会話なんて交わしていなかった。 もう何年口にしていない言葉だろうか。 「おはよう」だの「こんにちは」なら職場の人にも、図書館利用者にも使う。 だが、ただいまとおかえりという、その二つの言葉は一緒に生活しているからこそ使う言葉だ。 とにかく返事を返さないわけにはいかないため、 ぎこちなく笑みを浮かべてその言い慣れない言葉を返した。 「……た、ただいま」 「たっだいま!」 精一杯の台詞にかぶせるように耳元で同じ言葉が大音量で聞こえてきた。 驚いて反射的に耳をふさぎ、ニマニマしたミィレを睨みつける。 同じ発音のはずなのに、こちらは随分と自然でなんでもない言葉のように聞こえた。 まるでお手本はこうだと言い直されているかのようだった。 「またまたびっくりしちゃった?」 「当たり前だろ!」 二人が騒いでいる声を聞いてやっとジェンがこちらを向くと、ミィレから離してもらえないアルトを見てからかう。 「なんだ、お前等またくっついたのか?」 残念。とでも言いたげな笑顔を浮かべてミィレはパッと離れた。 つまんねーの、と舌打ちをするジェンをアルトがギロリと睨む。 「お前な……」 「でも、まあ、ちょっと楽しかったよね。大変だったけど」 「楽しくねーよ。結局薬は間に合わなかったし!」 「わたし的には問題なーし! 薬も、もともと欲しかったものだし、あとででも届けばラッキーって感じ」 「私的にはアンラッキーだったけどな!」 改めて右手を見つめる。 目に映るのは自分の手。腕。それだけ。何もくっついていない。 まだ若干ベタベタした感じが残ってはいるが、それもシールくらいの粘着力で、すぐにはがすことができる。 自由の身になれたとき、アルトは思わず全力でガッツポーズをしたほど感動した。 自分が思う通りに動けることが、こんなにも楽で素晴らしいことだとは思っていなかったのだ。 パチパチとやる気のない拍手をくれたジェンとソフィアに、アルトは「もっと心を込めろよ!」と理不尽に叱ったが、 他人とくっついて取れなくなるなんて事態に陥る事は普通に暮らしていればまずないため、 仕方がない反応だったと言えるだろう。 当事者と傍観者では感動の差があまりにもあり過ぎた。 もちろん当事者の一人であるミィレは、楽しかったという割には嬉しそうに体を動かしていた。 ソフィアがジェンにお茶を渡す。 ジェンはそれを受け取り、お面をずらすとズ、と一口すすった。 お面の下の白い肌が一瞬見えてすぐに隠された。 「そいつが良い反応してておもしろかったよな」 「さっきも結構驚いてくれたし、おもちゃにしがいがあるよね!」 「あんだとこら!」 ミィレの頭に拳骨でも落としてやろうと拳を握ったが、笑いながら逃げられてしまった。 アルトは舌打ちをしたが、追撃することも、ジェンに標的変更することもせず、 自分の部屋である赤い扉へドスドスと足を踏み鳴らして近づく。 「あ、アルト――」 ソフィアが彼女に声をかけようとしたが、アルトはその事に気付かず自分の部屋へ入ってしまった。 自室に入った彼女はまず、持っていた紙袋の中身を机の上に広げた。 インクと原稿用紙、そして一緒に入れていたサイフも出すと、紙袋は空になってしまった。 ガサガサと言わせながら逆さにして振ってみるが、ゴミすら出てこない。 ダメもとでもう一度ポケットなどを探ってみたがどこにも鍵はなかった。 上着も脱いでバサバサと振ってみたがやはり何も入ってないし引っかかってもない。 完璧に鍵をなくしてしまったらしい。 頭を抱えて机に突っ伏する。 ソフィアからこの家の鍵を受け取ったのは今朝、出掛ける直前のことだった。 それからすぐにポケットに入れてそれから取り出してすらいないはずだ。 一体どこで落としたのだろうか。 ここで頭を抱えていてもどうしようもない。 ため息をつきながら立ち上がり、重い足取りで部屋を出た。 共有スペースではミィレがソフィアとジェンに向かって、なにやら熱心に話していた。 アルトはそれを聞き流しながらソファに座る。 ソファの向きによって必然的に彼女たちには背を向ける格好になる。 「ね、ね、行きたいでしょ?」 「なるほど、それは行かないといけないな。義務だな」 「義務よね! さすがジェン!」 「俺、量はあまり手伝えないけど、いいかしら」 「大丈夫大丈夫。わたし達は食べれるだけ食べればいいでしょ。  ジェンが頑張ってくれるだろうし、もしものときはアルトが何とかしてくれるよ!」 ミィレが根拠のない他力本願な発言をした後、 三人は飛んでくると思ったツッコミがなかったのを不思議に思い、チラリとアルトを見た。 だが、自分の名前が呼ばれ、なにやら丸投げされようとしているにもかかわらずアルトは無反応だ。 それもそのはず、彼女の頭の中は今それどころじゃないのだから。 そわそわしながらその話が終わるのを待っているため、三人の会話の内容自体は全く理解していない。 そんなことを知る由もない三人は顔を見合わせて肩をすくめると、ソフィアは気を取り直すようにそうね、と立ち上がった。 「じゃあ、ちょっと待ってて。キッチン片づけてくるから」 彼女がキッチンへ入っていったところでいったん会話が途切れる。 一人欠けているが、次いつ訪れるかもわからないチャンスを逃すべきではない。 アルトはソファーに身を沈める。 目の粗い布のカバーで程よい硬さのそれはとても座り心地が良い。 よし、と小さくつぶやき、立ち上がり振り返ろうとした、その時。 「アルト、聞いてなかったでしょー!」 「わひゃっ!?」 ミィレから不意打ちで声をかけられ、変な声を出して座り直してしまった。 ジェンとミィレが噴き出す。 その拍子に言おうと思って頭の中で考えていたことがどこかに飛んでいく。 慌てて頭の中を探すが、焦ってうまく言葉が出てこない。 あわあわしているだけのアルトを見て、ミィレは頬を膨らませた。 「その様子じゃぜーんぜん聞いてなかったみたいだね。もー」 仕方ないなと言う割には妙に楽しそうな表情をして、持っていたものをびっと、勢いよくアルトの鼻先に突き付けた。 あまりにも近すぎて焦点が合わず、思わず上半身をのけぞらせると、そこにあったのは一枚のポスター。 カラフルな文字と、中央にはパフェらしきもののイラストが鎮座している。 周りにはリンゴが飛んでいた。 そのうしろから弧を描いた目だけをのぞかせると、ミィレはアルトに問いかけた。 「アルト、おなかすいてる?」 「は?」 「すいてる?」 「……まあ若干」 「じゃあ決定! 食べに行くよ!」 おそらくアルトがお腹一杯と言っていたとしても決行されたであろう決定を告げる。 ミィレはポスターを握りしめると興奮したように両拳を上下させた。 「ゴリリンゴの頭を使ったパフェなんだって! さっき見つけたんだ!」 これだけじゃないのよ! と得意げに人差し指を立てた。 さながら通販番組でも見ているようだ。 今なら羽毛布団でもついてくるのだろうか。 ところがミィレが追加したのは布団ではなく、情報だった。 「ゴリリンゴ、ってきいて何か思い出さない?」 「……私の職場を破壊されはしたな」 ゴリリンゴ。思い出したのは今も絶賛修理中の図書館だった。 アルトは破壊されたと言ったが実際の被害としては半壊程度で、 幸いにも仮設を用意しなければならないほどではなかったため、 もうしばらく仕事が休みになるくらいで済みそうだ。 冒険者になったばかりで、愉快過ぎる仲間に振り回されているアルトとしては好都合だった。 おそらくその分の仕事が休み明けに来るのだろうが、先のことはなるべく考えないようにしてやり過ごすしかない。 ミィレはそれそれ! と言いたげに人差し指を突き付けた。 「そのゴリリンゴの頭! 不覚にも回収し損ねたのは知ってるよね?」 「……まさか」 「そのまさか」 意味ありげにウインクするミィレ。 彼女がどこからか仕入れた情報によると、 役所が図書館の騒動の証拠として残っていたゴリリンゴの頭を引き取り、元飼い主であろう人に持って行った。 だが、小さくて可愛かった時の姿にしか興味がなかったらしく、無情にも処分を押し付けられたそうだ。 このままでは食べ物を無駄に腐らせてしまうだけだと思った役所は、 民間のスイーツ店に依頼して買い取ってもらったとのことだった。 店は少々大胆な宣伝ができて、役所は先日のテロによる被害の復興資金を手に入れることができる。 まさにウィンウィンな取引が行われたらしい。 ミィレは何故か胸をそらせて威張ったように腕を腰に当てた。 「これはわたし達にこそ食べる権利があると思わない?」 「まあ、倒したのは私達だからな……」 そう、そのゴリリンゴを倒したのはほかでもない彼女たちだった。 別に秘密にしているわけでも、示し合わせた訳でもない。 ないのだが、本人たちが揃って特に口外していないために誰も知らない事実となっている。 「しかも、食べきったら無料」 追い打ちをかけるようにジェンがポスターの文字を読み上げる。 食べきったら無料。 パフェ一つにつき四人まで同時参加が可能らしい。 タダで食べるために他のメンバーを誘ったのかと、アルトはやっと合点がいった。 「ね、アルトも行くでしょう?」 「それ、選択肢ないんだろ?」 「もちろん!」 「……わかったよ」 やったーと喜ぶミィレ。 「その代わり、ちょっと頼みがある」 話している間に、どこかへ飛んでいってしまっていた言葉も何とか見つけ出せた。 出鼻をくじかれたが、アルトはやっと彼女にとっての本題に入ることができる。 「実は……鍵を落としてな。街を歩くときに気を付けて見ていてくれないか?」 幸い、目的地である店の場所はアルトがちょうどさっきうろついていた辺りだった。 もしかしたら店までの道中で見つけられるかもしれない。 「鍵って?」 「ここの鍵。出かける前にもらったんだけど……」 「えー! もうなくしちゃったのー?」 「あーあ。わっち知らね」 ミィレは大げさに驚き、ジェンは頭の後ろで手を組んで早々に匙を投げた。 アルトは慌てる。探してくれる目は多い方が見つかる確率は高い。 ここはできるだけ説得しておきたいところだ。 「一緒に探してくれねえのかよ」 「コレ次第だな」 ジェンは親指と人差し指でわっかを作る。 「ケチか!」 「守銭奴と言え。守銭奴と」 「同じ意味だろうが! なんのこだわりだよ! ……そうじゃなくて、一応仲間だろ!  それに、鍵はここの備品だ。なくしたら弁償なんじゃないのか」 手伝ってもらえるように、理由を並びたててみるものの馬耳東風。 やはり頼むのは間違いだったのかと思った時、ミィレが笑顔で言った。 「わかった、探してあげる」 小悪魔だと思っていた笑顔が女神の微笑みのように思えた。 思わず立ち上がる。 「本当か!」 「その代わり、万が一食べきれなかった時の支払いはアルト持ちね」 そう言って先ほどのポスターをぴらぴらと振る。 やはり悪魔だった。 アルトは舌打ちをする。 「足元見やがって……わかったよ! 払ってやらあ!」 「ま、保険だけどね。多分全部食べちゃうよ」 「本当だろうな」 また適当なこと言っているのだろうという目でミィレを見る。 ポスターの隅に表記された、完食できなかった場合の定価はなかなかのものだった。 いくら格安でゴリリンゴを仕入れたと言っても、そのほかのクリームだのアイスだの他のフルーツだのの材料費はかかる。 宣伝目的のメニューだと言っても、全員が全員食べきることができるかできないかのギリギリのラインを取りたいはずだ。 ましてやメンバーは全員女性。 甘いものは別腹という魔法の言葉を差し引いても量は稼げそうにない。 「秘密兵器がいるんだなあ」 そういうと意味ありげにジェンの方をチラリと見た。 ジェンはその視線に気づくとおちゃらけてピースサインを出す。 「ジェンが?」 アルトは怪訝な顔をする。 彼女がそんなに大食いだという印象はアルトにはなかった。 ここ数日間、朝昼晩ずっとというわけではないが、数回くらいは一緒に食べている。 その時の食事量が目を見張る程のものだった記憶はない。 たすき上げした袖から伸びる腕は細く、それは隣にいるミィレも、今キッチンにいるソフィアも変わらない。 その細い腕と、自分の腕を見比べてアルトは少し落ち込んだ。 自分はそこまで暴飲暴食しているつもりはないし、仕事で力仕事もしている。 なぜこうも全体的な体の太さが違うのだろうか。 アルトの思考がズレはじめ、密かに嘆いていると、ジェンがあっと声を上げた。 「お前武器屋の通り通った?」 アルトが用のあった文房具店は武器屋の少し先だ。 「通ったが、それがどうした」 「それなら丁度いい。そっち方面にも寄り道しようぜ」 ジェンは立ち上がりキッチンに入ると、すぐに戻って来た。 ソフィアもちょうど片付けが終わったらしく、一緒に出てきた。 その瞳は不思議そうにジェンの手元を見つめている。 「ねえジェン。それは、おやつ?」 「そんなわけないだろ」 ジェンが持っているのはソーセージだった。 調理したわけではなくそのままのもの。随分ワイルドなおやつだ。 「わっちじゃなくて、最近仲良くなった野良が武器屋の通りによくいるんだ。そいつにやるんだよ」 彼女が言う野良、とは犬のことなのだろう。 また犬かよ、餌付けまでしてんのかあいつは。とアルトはつぶやく。 猫に全く同じことをしている自分のことは棚上げされているようだ。 幸いジェンには聞こえていなかった為、不毛な言い合いには発展しなかった。 さすがにそのまま持ち歩くわけにはいかないので、ジェンは適当な袋にソーセージを入れた。 「よし、じゃあしゅっぱあつ!」 張り切ったミィレの音頭で全員が玄関へと向かった。

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