インクのにおいでアルトは目を覚ました。
目を開けると視界はぼやけた灰色。
微かに羊皮紙の香りもする。
そこでやっと顔に本を乗せているのだと言うことに気付いた。
どうやら本は読みかけで、途中で眠ってしまったらしい。
つまらない話でもないのだが、序章が長すぎたのと、日頃の疲れが出たせいだろう。
他の住人が出かけている静かな間に読んでしまおうと思っていたが、かなわなかったようだ。
本をすこしだけずらして壁に掛けてあった時計を見ると、寝ていたのは三十分ほどだった。
共有スペースのソファーで寝てしまったせいで、体が少し痛い。
「あ、アルト起きた?」
ミィレが上から顔を覗き込んできた。
アルトは言葉ともただの唸りともつかない声で返事する。
まだ寝ぼけていると判断したのか、ミィレはそっとその場から離れた。
暇だと無理やりにでも起こしにかかってくるミィレにしては、珍しくあっさりとした引き下がりだ。
アルトは不思議に思ったが、それでもまだ起き上がるのは面倒くさく、ぐずぐずしていると。
「ジェン! にらめっこしよ!」
少し離れたところからミィレの声がキンと響いた。
アルト以外の遊び相手がいたようだ。
合点がいったアルトは、二度寝をしようか、それとも起きてしまおうかと考えながらぼんやりと二人の会話を聞く。
「唐突だな」
「まあね!」
声や物音からしているのはミィレとジェンだけのようだ。
気配を感じ取ることが苦手なアルトでも、ソフィアの気配はないことはわかった。
まだ帰ってきていないらしい。
「なんか賭けるか?」
「そだね! せっかくだしね!」
「じゃあ……」
そこで素朴な疑問が沸いた。
にらめっこなんてどうやってやるんだ?
ジェンは仮面で常に顔を覆っている。
ちょっとだけ笑ったとしてもごまかせる。
だが、顔が見えないが故にどんなに変顔をしたとしてもミィレには見えない。
これは勝負がつかないのではないだろうか。
「いっくよー! にーらめっこしーましょ! あっぷ――」
「なあ、お前等それ……」
アルトが軽くツッコミを入れようと起き上がり二人に声をかけた瞬間。
ジェンが爆笑し始めた。
「あっはははははははは! なんだその顔!」
「はい、わたしの勝ちー!」
「な、それ……ふはっ、反則だろ! くははは……」
「作戦勝ちだもーん」
アルトはその声に思わずぽかんとしてしまった。
ミィレは丁度アルトに背中を向けていて、顔は見えない。
意外だった。
ミィレがそんなににらめっこが得意だなんて。
じっとみつめてじわじわ笑わせるという技はあるが、即座にジェンが笑ったことを考えるとそれではない。
「あ、アルトおっはよー」
振り返ったミィレは勝ったうれしさからかにんまりとしていた。
その顔はいつも通りでどちらかというと可愛らしい造形だ。
その顔をいったいどうしたらあんなに笑うのだろうか。
変顔が得意なイメージはまったくもってない。
というより、想像がつかない。
挨拶も忘れてまじまじと見つめていると、ミィレはニヤッと笑った。
「アルトもしたい? にらめっこ」
「え」
チラリと見ると、ジェンは余韻がまだ残っているのか床に伏せて肩を震わせている。
好奇心がないと言ったら嘘になる。
コクリとうなずいた。
「や、やめといた方がいいんじゃねーの」
震える声でジェンが忠告を入れてきた。だが二人はやめる様子はない。
「いいじゃんいいじゃん。じゃ、なに賭ける?」
「え、賭けるのか?」
「そうしないとやる気でないし。ジェンとはお団子賭けたよ」
アルトは悩んだ。
ジェンがあの状態ということは自分だって負ける可能性が高い。
あまり良いものは賭けたくない。
「あれは? 冷蔵庫のプリン」
ミィレが促した。
それはアルトが昨日買ってきたものだった。
別に有名店のものでも、高価なものでもないただのプリン。
それならあまり痛くない。
少し残念ではあるが。
「いいぞ」
「交渉成立! わたしが負けたらケーキ買ってきてあげるね」
随分強気だった。
相当自信があるらしい。
「いっくよーにーらめっこ――」
ミィレが音頭を取っている最中でソフィアが帰って来た。
「ただい……ふふっ、ちょ、なにその顔……!」
帰って来るや否や噴き出すソフィアにアルトは気を取られた。
だって、まだにらめっこは始まってすらいなかったのだから。
「まだなにもしてないぞ?」
「いや……ふふふっ……だめ、ツボに……」
顔を背けて震えるソフィア。
アルトが首をかしげながら視線をミィレに戻すと、ミィレは鏡をアルトに向けてかざしていた。
そこには落書きだらけの自分の顔が。
「ぶふっ……」
それに思わず吹き出すとミィレは嬉しそうに指をさした。
「あ、アルト笑った! わたしの勝ち!」
「いやいやいや! ふざっけんな!」
怒ろうとすごむと、3人は思いっきり吹き出した。
ミィレも笑いながらまた手鏡を向ける。
アルトもまた笑ってしまった。
これでは怒るに怒れないとアルトは顔を洗いに洗面所へ向かった。
幸い、ペンが水性だった。
せめてもの優しさを洗い流し、共有スペースに戻ると、プリンは既に食べられている最中だった。
したり顔のミィレに拳骨をかまそうとして逃げられ、アルトは仕方なく読書に戻った。