「風邪の日」

妻と娘はかけがいのない俺の宝物だ。 ほんとはずっといっしょにいて護りたい。 だけど、護るために離れないといけない時がある。 それは、仕事で家を離れたり、俺自身が危険に巻き込まれているとき、 そして、病気になった時だ。 「完全に風邪ね、アンドレイ」 妻のローレインから優しく告げられ、俺は情けないかすれ声をあげた。 「そんなぁ、せっかく帰ってきたってのに……」 「休日初日から災難ね」 ローレインは体温計を振りながらもう片方の手で俺の額を優しく撫でてくれた。 細くて白い手は冷たくて、バニラアイスをイメージさせた。 甘い匂いもする。 バニラの手は、ピッと人差し指だけを立てた。 「今日は一日安静にしておくこと」 「はい……」 おとなしくうなずき、その拍子にせき込んだ。 風邪なんて久々にひいたけど、こんなにきつかったっけ。 まるで頭のなかが分厚い氷にしきられたみたいにぼーっとするし、 暑いのか寒いのかよくわからないし、 頭は二日酔いみたいだし、 咳やくしゃみで息も苦しい。 「きっと疲れが出たのね。いつもお疲れさま」 「ローレインだって頑張っているじゃないか。それに、これくらいすぐ治すさ」 娘と遊びたいし、ローレインとデートもしたい。 「じゃあ、何かあったら呼んでね」 そういってローレインは部屋を出ていってしまったため、本格的に一人になってしまう。 朝の準備をしているらしい二人の音がドア越しに聞こえてきた。 何を言っているかまではわからないけど、そこにいるってわかるだけで少し安心する。 咳の後にくしゃみまでしたところで、寝室のドアが薄く開いた。 そこから可愛い顔がぴょこっと飛び出す。 「おとーさん、まだ起きないのかしら!」 娘の可愛い可愛いカロンだった。 おもわず顔がほころぶ。 「おはよう、カロン」 「おとーさん、おはよう! もう朝なのに、おねぼうさんなのかしら!」 そのままトコトコとこちらへ寄ってこようとするカロン。 そこにローレインが顔を出した。 「カロン、ここにいたのね。今日はお父さん起こさないであげてね」 「どうしてなのかしら?」 こてんと首を傾げるカロンの髪はまだ寝起きのままで、いつものようにおさげに結んでない。 なんだかいつもよりちょっとお姉さんっぽく見えるな。 いつまでも赤ちゃんみたいなつもりでいたけど、この子も成長していっているんだなあ。 どんどん大きくなって、綺麗になって……そのうち恋人とか……結婚とか……。 あ、やばい。ちょっと泣きそう。 風邪のせいに見せかけてちょっとだけ鼻を啜った。 「お父さん、お風邪引いちゃったんだって」 ローレインが、頭を撫でながら言うと、カロンはピンク色の目を大きく見開いて驚く。 「ええ! お風邪引いちゃったのかしら!」 「うん。ごめんな、今日は一緒に遊べないんだ」 「そっか……」 しょんぼりとするカロンの頭をバニラアイスの手が優しく撫でる。 「そう、だから今日はお父さんはおやすみしてないといけないの」 バニラの手が、カロンの前髪を意味もなく掻き分け、また撫でつけて元に戻す。 その指先からはカロンへの愛情が溶けだしているようだ。 カロンの肌は俺に似て褐色で、チョコレートアイスみたいだから、 ローレインのバニラと混ざってマーブルになるんじゃないかな。 「わかった! おとーさん、早く元気になってね!」 カロンは真剣な顔で言ってくれた。 うん、と笑顔でうなずき、ローレインに目くばせをする。 あんまりここにいると、カロンも風邪ひいてしまうかもしれない。 彼女は俺の考えを呼んでくれたらしく、カロンの手を引いた。 「じゃ、カロン。お手伝いしてくれる?」 「はあい!」 笑顔でそう言うと、カロンとローレインは部屋を出ていってしまった。 あの二人の笑顔を見ていると、なんだか元気になった気がするなあ。 ただ疲れただけだったなら、今ので吹っ飛んでしまうんだけどなあ。 それから、二人を抱きしめて、カロンといっぱい遊んで、ローレインとおしゃべりするところなんだけどなあ。 風邪じゃあそういうわけにいかないんだよな。 うつしちゃったら、このしんどさがあの二人にのしかかっちゃうわけだし。 それなら、俺がうんうん苦しみながら、ふんばって治した方がよっぽどいいや。 そうと決まったらさっさと治そう。 なにも病気を治しに家に帰ってきたわけじゃないんだ。 家族と過ごすために帰って来たんだから。 目を閉じると、だんだんと布団に沈んでいくように眠りに落ちた。 次に目を覚ますと、目の間にはクマがいた。 「んん……?」 寝ぼけながらしばしクマと見つめ合う。 赤いリボンのついたそいつは、たしか前にカロンにお土産に買って帰ったものだ。 でも、なんで今一緒に寝てるんだっけ。 朝は俺一人しかいなかったはずなんだけどなあ、と首を傾げていると、ドアがノックされた。 はあいとあくび交じりに返事をするとローレインが入って来た。 「りんごむいたんだけど、食べる?」 「食べる」 即答して上半身を起こす。 りんごの入ったお皿を手渡してくれるときに、ローレインは俺の隣に寝ているクマに気が付いた。 「あら? お友達がいたのね」 ふふっと笑いながら、クマの鼻をつつく。 「起きたらいたんだ。カロンかな?」 「多分ね。いつのまに持ってきたのかしら」 りんごを口に含む。 喉に通るとき、冷たい果汁でちょっと喉の痛さが和らいだ気がした。 喉も乾いてたからちょうどいい。 わざわざうさぎの形に切ってくれたそれをしゃくしゃくしていると、ふと疑問が沸いた。 「そういえば、寝るときはどうする? 俺、リビングのほうに移動しようか?」 「ううん、私とカロンでリビングにお布団引くわ」 「いやいや、ベットを独占するわけには……」 「いいのいいの。病人を追い出すわけにはいかないわ」 「でも……」 「さっきお布団干したし、カロンもいつもとちがう感じで寝れる―って楽しみにしてたんだから」 なおも食い下がろうとする俺に、ローレインはさらに追い打ちをかけた。 俺の言い出すことなど御見通しと言わんばかりだ。 叶わないなあ。 仕方ないから、お言葉に甘えることにした。 「そっか、ごめんな。ありがとう」 「いいえ。じゃあ、私、ちょっとだけ買い物行ってくるね。なにかほしいものある?」 飲み物も氷枕もローレインがすでに用意してくれていたから、今は問題ない。 強いていうなら、いつもは3人でぎゅうぎゅうに寝ているこのベットが寂しいくらいだ。 一人だと大きく感じるなあ……。 いらないよ、と首を振りかけて、一つ思い浮かんだ。 「じゃあ、アイス買ってきてくれないか?」 「アイスクリームね。分かったわ」 「あ、これ、ごちそうさま」 りんごの入ってた皿を渡す。 それを受け取ってローレインは部屋を出ていき、しばらくすると、玄関が閉まる音がした。 きっと明日の朝にはすっかり治っているだろう。 いや、治してやるんだ。そう思ってまた目を閉じた。 次目を覚ました時、外はすっかり暗くなっていた。 体調は随分良い。 そして、周りにいたクマが増えていた。 俺は一番近いクマを撫でながら、時計を見た。 もう十二時回っている。 一日中寝ていたものだから眠くないな。 クマたちを落としてしまわないようにそっとベットから出る。 近くに着替えが置いてあった。 さすがローレイン。用意がいい。 着替えてリビングに行ってみると、本当にカロンとローレインが寝ていた。 二人の寝顔をしばし眺めて、キッチンに移動する。 棚からこっそりウォッカの瓶を取り出したところで、後ろから声が飛んできた。 「こら」 驚いて瓶を落としかける。セーフ。 振り返ると、まだちょっと眠そうな顔のローレインが壁にもたれるように立っていた。 「ごめん、起こしちゃった?」 「ううん。それより、それ」 そういって、ひょいと俺の手からウォッカの瓶を取り上げた。 「没収ね」 「えー!」 「えー、じゃありません」 「だって病気なんだからほら、アルコールで消毒……」 「ダメです。ホットミルクで我慢してください」 「はい……」 ローレインがホットミルクを作ってくれている間、カロンの寝顔を覗き込んでいた。 幸せそうに眠っていて、見ていて飽きない。 「はい、ホットミルク。ちょっとだけブランデー垂らしてあげるから、これで我慢ね」 「はーい」 僕の夜更かしにローレインも少し付き合ってくれるらしく、自分のマグカップも持っていた。 カロンを起こしてしまわないように、キャンドルにひとつだけ火をともし、ぽそぽそとおしゃべりする。 「そう、今ベットの上はクマに占領されてるよ」 「ああ、見たわ。カロンがね、一匹持ってって、しばらくするとまた持って行くの。 だから"なんでクマさん持って行ってるの?"って聞いたらね、なんていったと思う?」 「なに?」 「"だって、おとーさん、起きたとき一人だったら泣いちゃうじゃない"だって」 二人で笑い合う。 「同じ理由であの子、お買い物もついてこなかったのよ? "おとーさんが寂しくないように"って」 「ああ、そうだったんだ。嬉しいなあ」 優しく育ってくれたんだなあ。とホットミルクを飲む。美味しい。 「そういえば、アイスクリーム。買ってきたけどどうする? 食べる?」 「明日みんなで食べよう。カロンの分もあるんだろう?」 「ええ、もちろん」 ホットミルクを飲みほしてしまうと、ローレインはもうおしまい、とコップを持ってキッチンに戻った。 「私もこれ洗ったら寝るわ。アンドレイも、もう一度眠ったらどう? 風邪がぶりかえしちゃったら、カロンと遊べなくなるわよ」 「それは嫌だな」 おやすみ、と言い合ってから、もう一度カロンの寝顔を覗き込んだ。 明日は遊んであげるからね。 丸出しの小さなおでこにキスしたいのをこらえ、立ち上がろうとすると、カロンが薄く目を開けた。 これは夢との中間にいるな。 「おとーしゃん?」 呂律が回っていないというより、口がうまく開いていない。 「ごめんごめん、まだ寝てな。夜だよ」 「んー、わかった……かしらぁ…」 とんとん、と布団越しに叩くと、カロンは目をつむったまままだ話し出した。 「明日わぁ……みんなで一緒に寝れる?」 「うん、多分ね」 「えへへ、やったぁ……」 ほとんど寝言に近かったのだろう、カロンはそのまま寝息を立て始めた。 あどけない寝顔は赤ちゃんの頃から変わっていない。 このまま成長してほしいような、ほしくないような。 複雑な気持ちを抱きながら、寝室に戻った。

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