デニム生地のバックの中を軽く確認すると、出勤するべく外に出る。
もちろん、傘を持っていくのも忘れない。
カルの姿はもうなかった。
街から少し離れたイナエ駅に向かったのかもしれない。
職場は宿屋を出て、商店街を通り抜けた先にある。
市場はもうすでに賑わいを見せていた。
商人の元気のいい声が飛び交う。
数時間後にはおそらくガラガラ声になっているのではないかというほど、声を張り上げて自分の取り扱う商品を宣伝している。
雨が降り出せば、客足も、声も少しは収まるだろう。
エレフセリア大陸の真ん中にあり、駅も近くにあるイナエ街は、商人や旅人が立ち寄ることが多い。
首都のモンゼルクほどの賑わいはないが、商業都市として地味に栄えている街だった。
商店街をフラフラと歩きながら、店の商品を流し見ていると、目の前をすっと黒い何かが横切った。
店と店の間の路地の陰にある樽の上に飛び乗り、腰を下ろし、顔を洗う。
黒猫だと分かった後のアルトの行動は早かった。
驚かさないように近づいて、猫の顎を撫で始めた。
猫は気持ちよさそうに目を細め、ゴロゴロと喉を鳴らす。
「お前、久しぶりだな。どこで遊んでたんだよ」
猫をなでくりまわしながら、若干甘い声で話しかけるアルト。
彼女は猫が大好きなのだ。
その黒猫もたまに見かけては、こうして可愛がっていた。
黒猫は不吉の象徴だと言う人や街もあるが、彼女は気にしていなかった。
現に黒猫が横切っても、愛でる始末だ。
「ごめんなー。今日は食いもん、持ってないんだ……」
なんてつぶやいていると、たちあがり、ぴょんと樽から降りた。
言葉が通じてしまったのだろうか、すまし顔で離れていく。
どこへ行くのかと目で追っていると、猫の向かう先には野良犬と、それをなでくりまわしている人影があった。
人通りの多いその通りでその人物が目についたのは、自分と同じく野良を可愛がっているからだろうか。
鶯色の髪はみじかく、寝ぐせでピンピン跳ねまくっている。
袴姿で後ろを向いているので顔どころか性別もわからない。
猫はあわただし気に通り過ぎていく人々の足をするするとよけながら、ほぼ一直線にその人物の方へ向かっている。
「なんだ、腹減ってんのか、しょうがねーなー。ほら、ソーセージやるよ、昼飯なんだけどな」
そんなことを言っているのが聞こえた。
若干の既視感を覚えていると、猫はその人物の死角になるところに忍び寄り、そして手に飛びついた。
予想外の場所からの乱入者に、その人物は一瞬肩を跳ねさせた。
「あ、てめ!」
その人物は猫の首根っこをひっ捕まえた。
おそらく犬にやろうとしていたソーセージを横から奪い取られたのだろう。
猫に文句を言っているようだ。
アルトは、仲裁に入るべく、その人物の肩をたたくと、その人物は振り向く。
その顔を見て思わず悲鳴を上げそうになってしまった。
ものすごい勢いで振り向かれたからではない。
それも理由の一つだが、それよりも、その人物の顔が真っ白だったことに驚いたのだ。
色白ではなく、本当に真っ白。
血なんて通っていなかった。
その人物はお面をかぶっていたのだ。
目と、空気穴なのか、おでこに六つほどの穴が開いている。
左頬にはなぜか桜が描かれているが、服と同じく和風にしたつもりなのだろうか。
「……なにか」
勢いよく振り返った割には冷静な声をかけられた。
背はアルトより少し高く、細身。
声は女にしては低い方だし、男にしては高すぎる。
中性的でミステリアスと言うと聞こえはいいが、アルトの目にはただの不審人物にしか映らなかった。
自分の好みを曲げない奇抜なファッションをした者はたくさんいるが、それでもその姿は少々異様なものがあった。
謎という言葉が似合いすぎる人物に少々動揺しながらも、猫の擁護をする。
「あ、そ、そこまで怒らなくていいだろ。猫のやったことだ」
「……お前、飼い主か?」
首根っこを捕まえたままの猫と、アルトを交互に見た。
「え、いや違うけど……」
猫のためにならないとわかっていながらも、たまにご飯をあげてしまうが、名前を付けたり、一緒に住んだりということはしていない。
第一、その黒猫を飼い猫だというのなら、イナエの街中に彼女の飼い猫が十何匹もいることになる。
「じゃあなんで猫の味方するんだよ」
「猫がかわいいから、じゃだめか?」
贔屓の塊でしかない答えになっていない答えを返すと、その人物は鼻をならした。
「なんだよ、猫好きかよ」
その言葉と態度にアルトはカチンときた。
「なんだとはなんだ! 猫の何が悪い!」
「別に。悪いとは言ってねえよ」
「そういうお前は……犬好きか」
「だったら?」
最初のおとなしそうな印象とは一変。
随分と挑戦的な物言いだ。
元来、犬好きと猫好きは相対するものだ。
忠実で、人懐こい犬。
気ままで、わがままな猫。
どちらもかわいいが、系統が全然違う。
どんな動物好きだって、どちらかを贔屓してしまうのではないだろうか。
アルトも犬が嫌いなわけではない。
だが、猫よりも犬が良いという意見に納得がいかないのだ。
初対面にもかかわらず、自然といつもの喧嘩腰になる。
「お前とは趣味が合いそうにないな」
「別に合いたくねえよ。ほら、猫は逃がした。これで満足だろ」
謎のマスクの人物の手から逃れた猫は路地裏に逃げて行った。
犬もいつの間にかいなくなっている。
投げやりな態度に余計腹が立ったアルトは、勢いよく背を向けて、そのまま早足で立ち去ろうとしたその時。
後ろから声が聞こえた。思わず動きが止まる。
「ここにいた! ソフィアがみつけたってよ!」
「まじか」
最後の一言はアルトが先ほど口喧嘩した犬派の声だった。
もう一つの声は宿屋で聞いた、姿のない少女の声だった気がする。
慌てて振り返ると、もうそこには誰もいなかった。
辛うじて、さっきの袴の人物が路地裏に入っていくのが見えた。
すぐ後ろで起きた出来事だったというのに、また正体を掴み損ねた。
一体いつ現れて、いつ見えなくなったのだろう。
ほんの一歩路地裏に足を踏み入れると、表通りの商人たちの声が遠くに聞こえ、代わりに屋根やパイプから滴り落ちる雨水の音がやけに大きく聞こえた。
どこに隠れているのか、か細い声で猫が鳴いているが、もう追いかける気にはならなかった。
宿屋の女将さんにでも聞けば一発で正体がわかるのだろうが、やはり曖昧にしておいた方がまだ救いがある気がした。
彼女は今日もこの宿で夜を過ごさないといけないのだ。
知らない方がいい真実というものもあるだろう。
アルトは身震いをしながら、表通りに戻った。
煩いと思っていた商人の声も、そのときばかりはとても安心できた。
職場につくと、建物の外から遠巻きに眺めている人だかりがあった。
ただならぬ雰囲気から、誰かが図書館のカギをなくしたなんていう騒ぎじゃないことが分かった。
なにかあったらしい。
建物の方に目をやるが、たまに、二階の窓が光っていることしかわからない。
今朝新聞で読んだテロリストでも立てこもっているのだろうか。
すでに出社していた数名の先輩や上司は混乱する人々を抑えるのに必死で、アルトに説明をする余裕はなさそうだ。
彼らから話を聞くのは無理だろう。
事情を聞けそうな人を探して辺りをキョロキョロと見回す。
あわよくばあの人がいないか、なんていう期待を持ちながら。
あの人、とはアルトが密かな恋心を抱いている、図書館によく来る青年のことだった。
何度か話したことはあるが、名前すら知らない。
残念ながら、司書と利用者という関係では、名前を聞くことすら難しい。
相手は彼女のことを覚えているかどうかすらも怪しいだろう。
その彼が最近図書館に姿を現さなくなったのは、ちょうど噂のせいで図書館に妙な注目が集まった頃からだ。
つまり、噂のせいで彼は図書館に来なくなり、アルトは読書に耽る彼を眺めてぼーっとすることもできなくなったのだった。
それが、噂に過剰に激怒した原因だった。
こんなこと、幼馴染の彼に言えるわけがない。
言ったところでからかわれることが目に見えている。
残念なことにやはり今日も彼らしき人を見つけることはできなかった。
代わりに近くに顔見知りの利用者がいるのを発見し、近づく。
それは紫色の髪の女性だった。
もちろん、彼女の名前も知らない。
眼帯や、頭にツノを付けたりしているが、そのファッションが気になったのも最初の頃だけだった。
すらりとしたスタイルだというのに、大きな胸。
体形が気になるアルトは、たまに彼女のことをうらやましいと思っていた。
「すいません、なにがあったんですか」
「あら、貴女ここの司書さんよね」
その女性はアルトのことを覚えていたらしく、怪しまれることはなかった。
「ええ、私、今来たところで……」
「私も詳しくは知らないんだけど。なにかが暴れてるらしいわ」
漠然とした情報。
だが、ないよりはマシだった。
また窓が光る。
あの光は、銃や爆弾などの人工的な光ではない。
おそらく、魔法が発動する際に発せられる光であろう。
残念だがその発光だけでは、どんな魔法なのかは判断することはできなかった。
「まあ、職員も利用者も全員避難して…………あら?」
女性の視線が、図書館の入口に止まった。
アルトもそちらに視線を移すと、そこには、変わった羽の生えた少女と、先ほど喧嘩したお面の人物が図書館に入っていくところだった。
野次馬を抑えている司書たちの制止を無視して堂々と正面入り口から入っていった。
一人が追いかけようとすると、野次馬がその隙に図書館に入り込もうとした。
あわててそれを止めに入ったため、結局追いかけることはできない。
あの羽の生えた少女が姿のない声の正体なのだろうか。
チラリとしか見えなかったが、足は生えていた。
幽霊というわけではないらしい。
「すいません。私ちょっと行ってきます」
話を聞いた女性に断りを入れながら、その人物たちの後を追おうとしたところ、腕を引かれた。
「貴女には、この図書館でお世話になっているから、忠告してあげる」
女性が耳元でささやく。
振り返ると、彼女の赤紫色の目が思ったより近くにあり、おもわず少し身を引いた。
「あの女には気をつけなさい」
眼帯で隠れていない赤紫色の視線と、アルトの黒色の視線が繋がる。
女性のあまりにも真剣な目におもわず息を呑んだ。
「あの女って……?」
「さっき見ていたでしょう? 金髪ツインテールの露出狂のことよ」
足があるかどうかと、珍しい羽に注目してしまったため、細かい特徴はよく見ていなかったが、おそらくお面の人物ではないほうの女の子の話なのだろう。
確かに金髪で、肌の面積の多い服を着ていた気がする。
そもそもお面の人物は女か男かすらもわからない。
彼女はいったい何を知っているのだろうか。
そして、あの二人はいったい何者なのか。
質問攻めにしたいところだが、細かく聞いていては、彼女たちが逃げてしまうかもしれない。
「わかりました。頭に入れておきます。ありがとうございます」
「いえ……。気を付けてね」
女性がゆるめた手からするりと抜けると、そのまま図書館の入口に駆けて行った。
謎の二人が中に入っていくのを見たからだろう、アルトの上司に当たる司書が図書館内に入っていくのを呼び止め、代わりに彼女が中に入っていった。
カルにも言われていたように、彼女は腕には少々自信がある。
本来ならば司書という仕事より、冒険者や力仕事の方が能力を最大限に発揮できるほどの腕だ。
その腕前で、最近集まってきた冒険者たちを追い払ってきたのは彼女だった。
上司が素直に彼女に行かせたのは、その事実があるからだろう。
図書館の中は誰もいないことをのぞいて、いつもと変わりがなかった。
煙が出ているわけでも、本棚がなぎ倒されているわけでも、血が飛び散っているわけでもなかった。
太陽の光が薄いことも手伝って、まるで早朝の図書館のようだった。
「やっぱり、二階か……?」
つぶやきながら上を見上げると、ちょうどその真上から、ドンドン、となにかが倒れる音がした。
あわてて二階への階段を駆け上がる。
二階もそう変わった様子は見られなかった。
だが、すぐに奥の方から激しい音が聞こえてきた。
アルトは棚の陰に身を隠しながら進む。
持っているのは傘だけだ。
それを武器代わりに両手でしっかりにぎりしめた。
包帯を巻いた右手が少し痛む。
そっと本棚の影から顔を出すと、なにかがスコンと額にぶつかった。
衝撃で上を見上げる。
どうやら本が飛んできて、その背表紙が見事にクリーンヒットしたらしい。
額を押さえて痛みに耐え、また正面を向くと、そこではまるで鳥か蝶のように本が舞っていた。
いや、本だけではない、その本を収めていたはずの本棚までもが宙を舞っていた。
「何なんだよ、これ……」
まるで台風のように一定の範囲をぐるぐると回る本と本棚。
その目の部分には、一人の人影。
軍服を身にまとったその小柄な姿は残念ながら背中を向けている。
だがその線の細さからして、女性だということは十分に察することができた。
彼女がこの騒ぎの元凶だと判断し、飛んでくる本棚や本に注意しながら少しずつ後ろから忍び寄った。
もしも、元凶ではなかったとしても文字通り巻き込まれているのは明らか。
保護しなければならない。
少女は何かを探しているらしく、キョロキョロと辺りを見回している。
「おいお前!」
声をかけると、こちらを向いた。
小柄な背中ごしにこちらを向いた目は赤く輝いていた。
鈍く光っているようなその目を睨みながら、アルトは彼女に傘の先を向けた。
「今すぐ、魔法を停止――」
アルトが警告を言い終わる前に、目の前には剣の切っ先があった。
あわてて体をひねってそれをかわす。
反射的にその行動ができた自分の体を心の中で褒め、その剣を向けた人影を見た。
瞳が血のように赤く染まっているのはアルトから見て瞳は右だけで、左目は静かな海のように深い青だった。
アンバランスな左右の瞳はアルトの動きを追っている。
アルトはとりあえず、竜巻の圏外へ出て、安全を確保する。
ゆっくりと近づいてくる彼女に、アルトは傘を身構えながら威嚇する。
「何なんだよ! 危ねえだろ!」
道理に合わない攻撃への文句のために怒鳴り声を上げるが、彼女の声に臆することもなく、その少女はまた彼女に斬りかかってきた。
思わず持っていた傘で応戦する。
安物だったその傘の柄はちょっとのつばぜり合いにすぐに悲鳴を上げた。
長くはもたない。
そう判断するとすぐに軍服の少女を押し返した。
アルトと違い、力が強い方ではないらしくすぐに身を引いた。
いきなり襲い掛かってきたところを見ると、図書館で暴れていた何かとは、やはり彼女のことなのだろうか。
いやそんなことを考えるよりも先にこの状況をどうにかしなければ。
この数十秒の行動を見るからに、話し合いが通じる相手だとは思えない。
力はない代わりに身軽らしい相手に、逃げ足が速い方ではないアルトは尻尾を巻いて逃げるという選択肢はないものだと考えた。
ではどうするか。
「ねじふせるしか……ないか」
学生時代はカルとよく喧嘩したり、実技の授業で戦っていた。
だが、司書になってからというもの、幸か不幸か戦闘を必要とする事態に見舞われたことはない。
図書館の用心棒まがいのこともしたが、相手は戦う程の実力もない奴らばかり。
ちょっと脅せば、すぐに顔を青くする連中ばかりだった。
こんなにも好戦的な相手は本当に久しぶりなのだ。
アドレナリンの増加によるものだろうか、心臓がバクバク言っている。
彼女が浮かべる不敵な笑みは顔が引きつっているからそう見えるだけか、それとも案外彼女もこの状況を楽しんでいるのか。
実際はその両方だった。