ルカは、訓練の中でも、射撃の訓練が一番好きでした。
ガンガンに照っているお日様に見守られながら、砂だらけの地面に腹ばいになって照準を合わせます。
数十メートル先には黒い人型のベニア板。狙うは、その丁度頭に当たる部分です。
一点に集中しているとだんだん感覚が鋭くなって、地面のついでに頬をなでる風の形や、視界外にいる同じ分隊の仲間の一挙一動や息遣いが、見える気がしてきます。
引き金にかけた人差し指の筋肉を慎重に動かして、弾が出るギリギリまで引き絞ります。そうやって、感覚が研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされるほど、反比例するようにルカの中のごちゃごちゃした悩みや、感情は鈍くなっていく気がしました。
そもそも、多感で悩み多き年頃。
恋に、友達、家族、勉強等。
たくさんの小さな悩み事を背負い込んでいます。
しかも、先日のジゼル伍長の発言によって、それらをしのぐくらいの大きな悩みが増えてしまいました。
でも、今この時ばかりはそれを忘れられます。
そう遠くないところでジゼル伍長が息を吸う気配を感じとりました。
汗が肌を伝って気持ち悪いですが、我慢する他ありません。今ここで拭うような動きをすると、せっかく合わせた照準がずれてしまいます。
「撃て!」
待ちに待った合図が放たれました。その鋭い声を捕えようとするかのように、残りの”あとちょっと”を引きます。
パァン、と乾いた音が自分の銃と、ちょっと遅れて他の三人の銃からも鳴りました。
すかさず傍らに置いていた双眼鏡を取り上げて、どこに当たったかを確認します。着弾点は風や銃の調子などでいくらでも変わるので、二発目でそのズレを修正するためです。狙ったところよりやや右上でしたが、そんなに外れておらず、自己評価としてはまあまあの位置でした。
よせばいいのに、ルカはついでに隣の的を盗み見ます。
右隣にいるルイスの的には、自分のよりも良い位置に穴が開いていました。ルカは顔をしかめ、「クソ」つぶやきます。
「構え!」
ジゼル伍長がかけた号令で、ルカ達は再び腹ばいになります。今度は修正を頭に入れて照準を合わせなおしました。
この射撃訓練が空砲から実弾に代わるとき、一度だけジゼル伍長の射撃を披露してもらったことがあります。彼女は、その道では名の知れたスナイパーだったらしく、その動きは何一つ無駄のない正確なものでした。
それだけではありません。
その構える姿勢、次の狙いまでの要領、気配の配り方。その全てにおいてレベルの違いを感じさせられたのです。
まだそのすごさを理解できない当時のルカ達ですら感動して、誰からともなく拍手が起こるほどの手際。少々銃の扱いに慣れてきた今は特に、その素晴らしさを痛感します。
「本日の訓練はここまで!」
「ありがとうございましたッ!」
訓練終了の鐘が鳴る少し前に、ジゼル伍長が終了を告げました。
射撃訓練では、終わった後自分の使った銃を点検・掃除して、ジゼル伍長のチェックを合格してやっと訓練は終了となります。
しかもそのあと、次の授業に間に合うように着替えまでしなければならないので、大忙しです。訓練によってはそれ相応の恰好をして出席しなければならないので、射撃訓練を終えた作業服のまま座学を受ける、なんてことはできないのです。
とりあえず銃の整備を終えたルカ達一班は、ジゼル伍長のいる武器保管室に向かいました。
廊下は、もちろん一列になって歩きます。
後ろから二番目を歩くアベルが問いかけました。
「このあとの訓練はなんだっけ?」
その問いに、一番後ろを歩くハルが答えます。
「えっとたしか、座学だよ。お昼ご飯のあとは団体行動訓練で、最後は基本訓練」
「うげ、まじかよぉー! 苦手科目ばっかじゃんか! ついてねー!」
大げさに嘆くアベルに、リクトがいじわるな笑みを浮かべました。
「だったらアベルは毎日ついてないでしょ。得意科目なんて、近接戦闘しかないんだからさ」
「そ、そりゃあそうだけどよぉ……。オベンキョウなんて戦場じゃ全然役に立たねえよ! 射撃も! 殴って敵倒したほうが手っ取り早いじゃんか!」
「アベルは、本当に強いよね」
ハルがニコニコ笑いながら褒めます。
その他の教科はてんで駄目ですが、アベルは近接戦闘の訓練だけはトップの成績を誇っています。その体格の良さと力の強さで対人戦闘の成績はいい方のハルも、今一歩、アベルやリュメルには敵いません。
「おうよ! そのために軍に入ったようなもんだからな! まあ、天職ってやつだな!」
上を向いていた頭を元に戻したアベルは、笑顔なうえに天狗になっていました。
確かに、彼はその才能を見込まれて入隊が認められたのでしょう。むしろ、それ以外に理由が見つかりません。
そんな後ろからの会話を聞きながら、ルカは嘆息しました。せっかく射撃の時に消えていた悩みが、頭をもたげはじめたのです。
四八一分隊十二人、否、自分を覗いた十一人の中にスパイがいるかもしれない。
そう告げられてから数日、疑いのまなざしを向けてはみたのですが、誰も怪しいとは思えませんでした。かといって、仲間に相談することもできず、頭の中は悶々としてすっきりしません。
そんな悩みを自分でごまかすかのようにルカはアベルの長くなった鼻をへし折りにかかります。
「天職なら他の教科もがんばれよ。戦闘時なら、射撃は役に立つだろ」
「座学だって、知ってて損ってことはないと思うよ。戦闘中はわからないけど、前後では必要な場面も多いし」
「そうそう、リクトの言う通り」
「が、頑張ってるだろ!」
「じゃあ、それをジゼル伍長の前で行ってみろよ」
「お前、俺に死ねって言ってんの?」
そんなことを彼女の前で素直に口に出してしまったらどうなるか。考えただけで悪寒が走ったアベルがぶるりと震えたところで武器保管庫に到着しました。
保管庫の扉にきっかり三回ノックしてから、本日の班長当番であるルカが先頭になって扉を開けます。
「カロカイ軍ハイリリバー勢力訓練小隊第四八一分隊一班、ルカ・イーゲル二士以下四名、入ります」
最初の頃はつっかえつっかえ言っていた、自分の家の住所より長い所属名も随分すらすら言えるようになりました。
慣れというのはすごいものです。
逆に階級や配属が変わったときに間違えないでいられるか不安にもなりますが、そんな遠い先のことは考えても仕方がありません。
武器保管室の中は、大小さまざまな灰色のロッカーが並んでいました。
この中には何種類もの武器が収められています。
訓練兵たちはこの五ケ月で、やっとここにある三分の一くらいの武器の扱いを習いました。
あと半年でその倍以上を習うのでしょうか。
それとも、習わずに実践でのみ覚えるものもあるのでしょうか。
ジゼル伍長は手には管理名簿を持って立っていました。
彼女の前に一列横隊で並ぶと、まず、ルカだけが前に出て自分の使った銃を差し出します。
「銃を返納します」
「うむ」
それを受け取ると、ジゼル伍長は栗色の髪を耳にかけ点検を始めました。
流れるような、しかし正確な手つきは簡単そうに見えて、かなりの訓練を積まないとできません。
一通り点検が終わると、彼女は短く結果を告げました。
「下がってよし」
その一言を聞き、ルカはほっとしながら後ろに下がります。
代わりにリクトが前に出てると同じように銃を差し出します。リクトも難なく合格すると、アベル、ハルも順番に続きます。
ここで、彼女のOKがもらえなければもう一度手入れと点検をし直さないといけません。今回は全員、特に問題はなかったようで、最後のハルが終わると、ジゼル伍長は軽くうなずきました。
よくリテイクを食らうアベルは安堵した様子を見せました。
「四八一分隊一班、全員確認した」
そのままロッカーに収められるのを見ると、四人は横一列に並び、敬礼をしました。
「失礼しました!」
敬礼を解き、保管室を出ようと回れ右をしました。
その動きの一つ一つは四人ともピタリとそろっています。これは班単位の四人の時だけではなく、分隊単位の十二人でも、訓練兵小隊の六十人でも乱れることはありません。こういうところで、この数か月の地獄のような訓練の成果が垣間見えたりすると、本人たちも少しうれしくなります。
「ああ、ルカ二士。ちょっといいか」
あと一、二歩で武器保管室を出るというところで、突然呼び止められました。
「……え、あ、は、はい!」
慌てて返事をしながら足に急ブレーキをかけます。
完全に油断してしまっていたので、ルカは危うく自分の名前を聞き逃すところでした。
「着替えた後でいい。ルイス二士を連れて後で教官室まで来てくれないか」
ルイスの名が出て、ルカはちょっぴりイラっとしましたが、まさか彼女に向かって嫌だなんて駄々をこねるわけにはいきません。ビシっと敬礼をして返事をしました。
「了解しました!」
そのあとは特に何も言われることもなかったので、おそるおそる「失礼します」と言ってやっと武器保管室を出ました。
「あー、びっくりした」
「いきなりだったもんね。オレ、ルカにぶつかりそうになったよ」
更衣室へ行くと、そこには二班と三班が既に着替えを始めていました。
女の子のエリーナだけがいません。女子隊員は都合上、別行動をすることが多いです。数少ない女子隊員は女子隊員でコミュニティを形成しているようですが、ずっと一緒なのはどうしても同じ分隊の面々となります。そのメンバーと別行動というのは、少し寂しい気もします。
「ルカ、ルイスに言わなくて良いの?」
真直ぐに自分のロッカーを開け始めたルカに、ハルが言いました。ジゼル伍長に呼び止められた件です。
「着替えた後でいいつってたから、着替えてからでいいだろ。今、忙しそうだし」
ルカはつっけんどんに言って、ルイスのいる方向を親指で指さしました。
ルイスは着替えながらリュメルに一生懸命話しかけていました。
「はい。では、リュメル二士。ここでカロカイの状態と勢力の特色を簡単に説明してください」
「エッ!? え、えート……」
リュメルは戸惑いながら考えます。
自分の国の、しかも自分の仕事にかかわることなので、知っていなければならないことなのですが、彼の頭には少し処理が大変な問題だったらしく、頭から湯気が出そうなほど考えています。
その様子を見て、リクトが、あーと納得しました。
「小テスト対策かー」
座学を教えるローイ三曹は、毎回、授業の前に簡単な小テストをします。大抵が復習や基本的な問題なのですが、きちんと聞いて理解しなければ答えられません。これが結構成績に響くのです。
「た、たしか、今国の外じゃなくて中で喧嘩中なんだよナ? で、ええト、えエト……」
必死に思い出そうとしているのか、視線を右へ左へと忙しく動かしているリュメル。
いつもであればアベルがからかうところなのですが、そうしたら自分も巻き添えを食ってしまうだろうと予測し、口は出しません。黙ってロッカーを開け、着替えにとりかかります。
困っているリュメルがかわいそうに見えたハルが助け舟を出してあげようしました。しかし、それより先に、ルイスがリュメルに詰め寄ります。
「リュメル二士? これは基本中の基本ですよ? もうすぐ定期テストもあるんですから、ちゃんと覚えてください」
そこまで背は高くない彼ですが、こういう時は何故か迫力満点に見えます。
この言い方ですと、おそらく本当にミッチリ教えたことがあったのでしょう。さすがのリュメルも悪いと思っているのか、ぐったりとして「スイマセン」と謝りました。教官たちに拳骨をもらってもケロッとしている彼がこんな状態になるのは、珍しいことです。
ルイスはコホンと咳払いをして解説を始めます。
彼は真面目すぎる性格故に、授業についていけず小テストも毎回赤点のリュメルやアベルを放っておくことができません。毎回こうやって、隙を見つけては勉強を教えたりしているのです。特に同じ班のリュメルの面倒をよく見ているようです。
「我が国カロカイはここ数十年紛争状態にあります。そのせいで隣国エレフセリアとは休戦状態なのですが、とりあえずそれは置いておきましょう」
あまりにいっぺんに詰め込むとかえって忘れてしまうと思ったのでしょう。ルイスは解説の的を絞りました。
「勢力は主に三つ」
ピッと指を一本、リュメルの赤色の瞳の前に突き出します。
「まずは、我らがハイリリバー。首都を拠点とする勢力で、大佐クラスの主力勢力はだいたいここについています」
これはさすがにわかりますね? という目でリュメルをにらみつけるように見ます。リュメルはコクコク、と慌てて首を縦に振ります。
それを信じて、ルイスは人差し指と中指を伸ばしました。
「二つ目はゴットケイプ勢力。有名な者や優秀な者がここに所属をしているとは聞いたことありません。ある意味情報が少なく、謎の多い勢力です。今のところ中立の立場を取っていて、静観を続けています」
そして三本目の指を伸ばしました。
「そして、三つ目。目下のところ、我らハイリリバー勢力の、今一番の敵であるロスポンド勢力。ここは元スパイ関係の従事者が核となって――」
「アベルも参加してくれば?」
リクトがシャツのボタンを留めながら提案しました。
アベルは灰色の上着を羽織りながら眉を顰めます。
「なんでだよ」
「だって、あんたもヤバイでしょ。テスト」
「そんなことないぜ。あのバカよりマシだもんね」
「うっそだー。じゃあ、この前小テストは何連続0点だったっけ?」
「……二十……?」
口をとがらせてつぶやくように答えるアベルに、その会話を聞いていたらしい他の班からも笑い声が上がりました。
「二十連続0点ってやばいな!」
「アベルがスパイは絶対ないな。馬鹿すぎ」
ルカが思わず言うと、オットマーが笑顔でうなずきました。
「逆にこれが演技だったら大したもんだもんな」
「あと、芋ずる式にリュメルもな」
「ある意味安心するコンビだよな」
アベルとリュメルは成績のワーストを争っているコンビです。
コンビというよりライバルと言ってしまった方が適当でしょうか。
仲が悪く、成績の順位も見事に同列に並んでいて、よくケンカをしています。頭を使うのがすこぶる苦手なかわりに、たったひとつ、近接戦闘訓練だけは今年の訓練兵の中で一,二を争う成績を誇っています。その才能のおかげで入隊できたといっても過言ではないでしょう。
好き勝手に発言したオットマーやルカに、アベルが「なんだと!」とつかみかかりました。でも、本気で怒った様子はなく、そのままじゃれあうように胸倉をつかんだり軽く殴ったりします。
名前があがったリュメルもそのじゃれあいに参加しようとしましたが、ルイスに睨まれて踏みとどまりました。それでもそわそわとそちらに加わりたそうなリュメルを見て、ルイスははあ、とため息をつきました。
「さあ、続きは教室でしましょう。ネス二士、リュメル二士、行きますよ」
ここにいては集中できないと判断し、二班の男子を引き連れて、更衣室を出ていこうとするルイス。それに気づいて、ハルがルカを肘でつつきました。
「ルカ、ルカ」
「ハル、お前も加勢しろ、この馬鹿アベル……」
「ルイス、行っちゃうよ。いいの?」
「え? あー……仕方ねえな」
ルカはオットマーを犠牲にアベルから逃れ、しぶしぶルイスを追いました。
「ルイス・グランツ」
わざとフルネームで呼び止めると、ルイスは首を傾げながら振り返りました。
「なんでしょうか、ルカ二士」
「俺とお前、ジゼル伍長に呼ばれてるんだ。一緒に行くぞ」
「ジゼル伍長に……? 一体どうして」
「俺が知るかよ。ほら行くぞ」
呼び止めた割には突き放すように受け答えをすると、ルイスを置いていくように速足で更衣室を出ました。
ルイスは慌ててルカの後ろにつきます。
二人だろうと一列になることは忘れません。
教官室に訪れると、ジゼル伍長が顔を上げました。
「来たか。悪いな、授業前に。さっそくだが、本題に入らせてもらう。今度、長期遠征訓練及び前線見学があるだろう?」
それは、中間テストのようなもので、前線基地までの遠足のようなイベントでした。長期的な遠征で、体力、協調性、自己管理能力を測るのです。ここで脱落する者も少なからずいるそうです。入学当初から、ここを超えればやっと半人前と言われています。
「そこで、貴様らのどちらかにちょっとしたことを頼むかもしれないのだ。まだ決定事項ではないため、詳しくは言えん。だが、それだけ覚えておいてくれ」
「はあ……。なぜ、自分とルイス二士なのでしょう」
ルカは心の中で「よりによって」と憎々しげに付け加えます。
「……射撃の成績が優秀な生徒を選んだ。それだけだ。質問は以上か?」
「はい」
「ありません」
「そうか。では、もう一つ。これは別件なのだが……」
そう言って、大量の課題を渡されました。
ルカは内心うげーっと思いながら受け取ります。ずっしりとした重さがありました。
「四八一分隊は次の時間、座学だな? 担当のローイ三曹からの伝言を伝える。本日は自習。課題をこなして、今日中に提出すること。以上、復唱」
「はい、四八一分隊。本日中に課題を提出します」
「よし、では下がっていいぞ」
「失礼します」
教官室から出ます。プリントは思ったより少なく一人で持つには少し重いですが、二人で分けるのも馬鹿らしいほどの量です。一応ルイスが半分持つと申し出ましたが、ルカは短く断りました。
会話らしい会話はそれだけで、二人は無言で廊下を歩きます。
ルカはルイスが嫌いでした。
初めて会った時から嫌い、というわけではありません。入隊当初は、他の分隊仲間にするように打ち解けようとして話しかけたりなんかもしていました。ですが、ある日彼のあることを知ってから、どんどんどんどん彼が憎たらしく思えてきたのです。しかも、ルカが唯一得意としている射撃の腕は自分より上ということもあって、勝手に敵対心さえ抱いていました。
今日だって、射撃訓練で隣で撃っていた彼のスコアの方が上だったのです。それを思うと余計に腹が立ってきます。
ルイスがルカをどう思っているかはわかりませんが、彼の性格上顔色を伺うなんてことはしません。
二人は自然と、犬猿の仲になってしまいました。
「皆さん、次の座学は自習だそうで……一体何事ですか?」
ルイスがそういいながら、座学の教室へ入ると、そこには、無秩序に散乱する机と椅子、教科書類。そして、なぜか教室の後ろの方で固まってこちらを向いている四八一分隊の面々がいました。
教室へ入ってきたのがルカとルイスだということがわかると、彼らは一気に脱力した様子を見せました。
「なんだ、お前らか。びっくりさせんなよー」
ルカは訝し気に彼らを見ながら、課題を教卓に置きました。
「なにしてんだ?」
「そのまえにローイ三曹は? もうこっち向かってた?」
「今日は自習だそうです。あれはその課題で、提出期限は今日中です」
ルイスがもう一度説明すると、小さな歓声のようなものが上がりました。そこまで自習がうれしいのでしょうか。喜べる課題の量ではないのは見てわかります。
「それより、何しているのですか。状況の説明を……」
「――抜けた!」
じれったそうに再度同じ質問を繰り返すルイスの声を、ハルの声が遮りました。
すこし遅れてどすんという音が響きます。それは先日寝坊したアベルが、ジゼル伍長から引きずり落された時の音に似ていました。
その音に反応して四八一分隊は全員後ろを振り向きました。
「おー、よかったよかった!」
「さすがハル! お疲れ様」
「大丈夫かよ、二人とも」
自分たちに背中を見せて何やら盛り上げる仲間たち。
説明をしてくれる様子はないので、ルイスとルカは自分の目で確かめるしかありません。仲間達をかき分けて進むと、そこには、アベルを羽交い絞めしながらしりもちをついているハルがいました。
「いたたた……アベル、大丈夫?」
アベルは頭を犬のようにプルプル振り、髪についた何かの破片を落とします。
「おう……。サンキュー、ハル」
「なんですかこれは!」
「しー! 声がでかいよ」
いきなり声を荒らげたルイスの口をオットマーが手でふさぎました。
ルイスの視線はハルとアベルには向いておらず、壁を見ていました。
壁紙は破れ、その隙間から人の頭大の穴が開いているのが見えます。
状況から見て、ついさっきまでアベルの頭がここに突き刺さっていたのだということまでは想像できました。
「で、どうしてこうなったんだ?」
ルカが問いますが、四八一分隊の面々は彼から目をそらしました。
「どうせリュメル二士との喧嘩だろ? 当人はどこだ?」
リュメルが見えないことと、アベルが被害者であることを鑑みて、ルカは決めてかかりました。
「リュメルならそこにいるよ」
ロレンソがそういって指さした先には、褐色の肌の男が転がっていました。喧嘩で伸びるのは珍しいと思いつつ、ルカはため息をつきます。
「なんとまあ、派手に暴れたな」
「オットマー二士、ロレンソ二士。貴方達なら二人の喧嘩を止められる、止めてくれると思っていたのですが?」
ルイスが咎めるように言うと、オットマーとロレンソは視線をそらしました。
アベルとリュメルの喧嘩は日常茶飯事で、そのほとんどは備品が壊れて当事者二人が怪我するくらいで終わります。稀に、こんな風な被害が甚大になりそうな時は、オットマーやロレンソが筆頭になって、四八一分隊総出で止めるのです。
詰め寄られた喧嘩止め係筆頭の二人はモゴモゴと控えめに言い返します。
「うーん、二人の喧嘩は止めようとしたんだけど……なあ?」
「ちょっと予想外があったというか……」
言い訳はあるけれど言えない。
そんな雰囲気を醸し出す二人の様子ですが、ルイスは気にすることなくさらに詰め寄ります。
「どういうことですか! ちゃんと説明してください!」
どうやら洗いざらい話してもらわないと気が済まないようです。
たじたじになる二人とルイスの間に割り込んできたのは、シュメルツでした。
「ルイスよ。規律の番人を気取るのは結構だが、今は前を向くべきだ。良く言うじゃないか。こぼれたミルクを嘆いても仕方がない、とな」
今の台詞はキマッたぜと言いたげに、シュメルツはにやりと笑いました。
その言葉を翻訳するようにリノが小さく挙手をしながら言いました。
「そ、それよりこれをどうするかを考えませんか? さすがに放置ってわけにはいかないでしょう? ……って、言いたいんだと思います。多分」
「ああ、すまない。俺様の言葉は混沌を呼び寄せるのであったな。こちらの言葉は難しく……おっと、なんでもない。気にしないでくれ」
シュメルツは言っていることが間違っていることはあまりないのですが、自分に酔いすぎている言動が目立ちます。
どうやら自分のキャラクターや設定というのがあるらしく、よくどこかと通信をしているフリや、カロカイ出身ではないということをにおわせる言動をしています。
エルガー二尉のスパイ発言があってからも、それはぶれませんので、考えようによっては意志の強い人間とも取れます。
ですが、意志の強さ、頑固さではルイスも負けていません。シュメルツさえも巻き込んで三人に詰め寄ります。
「いえ、今原因の究明をしておかないと、きっとまた同じことが繰り返されます」
そして三人どころか、四八一分隊にも目を向け始めました。
「だいたい、最近皆さん、たるんでいませんか。ここは馴れ合いではなく訓練をするところなんですよ。相手にも自分にも厳しく――」
くどくどと分隊全体に説教をし始めるルイスにルカは思わず舌打ちをしました。
「偉そうに」
皮肉でもなく遠回りでもない言葉に、ルイスの左眉がピクリと動きます。
「何か言いましたかルカ二士」
例のあの妙な迫力で今度はルカに詰め寄ります。しかし、ルカはそれには屈さず言い返しました。
「てめーはいつこの第四八一分隊のリーダー様になったんだよつったんだよ! 偉そうに人の言葉に耳も貸さないで何様だ!?」
「じ、自分はそんな……皆のことを思って……」
ルイスの顔がカァッと赤くなり、さっきまではっきりと発音していた言葉たちがもごもごとしたものになります。
本当に彼はそれが正義だと、善意の行動だと思っていたのでしょう。
正しい事が全て。
そう思っている彼にとったら当たり前の行動です。偉そうにとか、リーダー気取りなんてまったく意識していませんでした。
「なんだよそれ。上から目線じゃねえか!」
鼻で笑うルカを見て、ルイスはぐっと体勢を立て直しました。ルカの方が頭に血が上って我を忘れているのを見て、冷静になったのでしょう。
「上から目線は貴方もでしょう。自分はただ――」
「も、もうやめてください!」
二人が喧嘩しそうになったところで、四八一分隊の華、紅一点のエリーナが叫び声をあげました。今にもつかみかかりそうだったルカとルイスは動きを止めます。
エリーナは自分の顔を覆い、崩れ落ちました。
大声や、喧嘩に怖がってしまったのだろうと思い、大丈夫だと知らせるためにルカはそっと彼女に近づきます。
「……エリーナ」
「ごめんなさあああい!」
わっと泣き始めたエリーナ。
予想外の謝罪にルカは「えっ」と動きを止めました。彼女が一体何を謝ることがあるのでしょうか。
「私が! 私が全部悪いんです!」
「あの、エリーナ、一体何を……」
彼女は確かに責任感が強い方ですが、意味もなく自分を責める悲劇のヒロインを気取ることはありません。控えめで優しいけれど、芯が強い。それが彼女です。ですので、彼女がこうなってしまうのには、理由があるはずなのです。
しかし、ルカが思い出す限り今の状況で彼女に非は見つかりません。
何が何だかわからず、ルカは立ち尽くします。
助けを求めるように振り返りますが、もともと教室にいた面々は何か気まずそうに視線をそらしました。その反応にも戸惑いながら、ルカは彼女は混乱しているのだと判断しようとしました。
「ねえ、落ち着いて……」
「ごめんなさあああああああい!」
しかし、なだめる前にエリーナは立ち上がってそのまま走って教室を出て行こうとします。
「え、ちょ、エリーナ!?」
ルカは彼女の腕をつかんで、それをなんとか止めました。
「離してルカくん! 私……!」
「落ち着けって、エリーナ! 何があったかは知らないけど、それより今は、シュメルツの言うように、今はあの穴をどうするかが先決だろ?」
「でも……っ」
そんな訴えを数分続けると、エリーナは多少落ち着きを取り戻しました。
ルカは、何があったのかを本当は聞きたかったですが、そんなことをしたら振出しに戻ってしまうので、ぐっと我慢しました。ほとぼりが冷めてからさりげなく聞くのがベストでしょう。
諸々の悶着が落ち着き、やっと本題にとりかかれます。
タイムリミットは訓練終了の鐘が鳴るまで。もう十五分以上も無駄にしてしまいました。残るは三十五分程。
その間に壁の穴をどうにかしなければなりません。
穴はアベルの頭の大きさです。
彼らがいるのは座学Aの教室。隣には座学Bの教室がありますが、幸い今の時間は使われていないようです。何人かでそちらの教室に回り込んでみましたが、穴は丁度黒板のおかげで見えませんでした。
つまり、座学Aの教室さえどうにかできれば四八一分隊の勝ちとなります。
さっそく、伸びていたリュメルを叩き起こして作戦会議が始まりました。
外から団体行動訓練の掛け声や、射撃訓練の銃声が蝉の声に混ざって聞こえてきます。特に飛んでくる先生もいないため、穴が開いたことを知っているのはここにいる者のみです。
「ポスターとかどうだ? 上から貼る」
「なにをだよ。不思議に思ってそれをはがされたらアウトだろ」
「皆で口裏を合わせて、しらばっくれる」
「バレるでしょ」
「じゃあ、侵入者がいて暴れて行ったってことにする」
「大ごとになるから」
「わかったゾ! ここだけ穴が開いてるから目立つんダ! 壁を全面的にボロボロにすれバ……!」
「オレ達そろって仲良く除隊だね」
名案と言わんばかりの勢いで言ったリュメルの提案はリクトが却下したところで、黙って穴を見つめていたアベルが言いました。
「俺、これくらいならたぶんなおせる、と思う」
「まじかよ」
確かに、アベルは粗雑な割には手先が器用です。
サバイバル訓練や短期の遠征訓練では、忘れてきたものや、作業のための道具を有り合わせの木材で作っていたりすることもあります。そんな機転が利くというのに、それらの成績も悪いのはすぐ遊びだしたり喧嘩したりするからです。
「本当にできそうか?」
壁をしばらく眺めまわして、アベルはサムズアップしました。
「任せローストビーフ」
和ませようと思ったのか、癖で口から出てしまったのか、それともただ単にお腹がすいていたのか、いつもは適当な返事を返すルカもこの状況では頭を抱えるしかできませんでした。
そんな空気にめげることなく、アベルは気を取り直して「ただ、」と続けます。
「ただ、板切れが必要だな」
「板切れ……ってどこからそんなの調達してこいってんだ」
そこら辺に都合よく板が落ちているわけがありませんし、まさか机を解体するわけにもいきません。
新たな問題十二人はまた頭を抱えました。
その中で、挙手をしたのはシュメルツでした。とてもいい姿勢とポーズです。
「俺様達が狙う黒きターゲットは、タフだが、いつか燃やされる運命だろう? そいつらを利用したらどうだ?」
こうなるともう連想ゲームかクイズみたいになってきます。
今度翻訳したのはネスでした。
「射撃訓練用の的は大体使いまわしをされるけれど、いくつかは薪に使われる?」
射撃用の黒い人型の的は、節約のために、使えなくなるまで何回も使いまわすのです。既に撃たれている穴はその周りは白くペンキが塗って区別できるようにしておきます。そうやって使いつぶされた的は、食堂の火や風呂を沸かしたり、野営の訓練時の薪になったりします。
「なるほど! それを少しかっぱらえば!」
「でも、そこだけ射撃板だったら目立つんじゃ……」
「いや、壁紙は破れただけだから、上手くすればごまかせる。俺に任せてくれ」
今度はダジャレなしに、アベルがどんと胸を叩きます。
四八一分隊は「おお!」とどよめきました。
馬鹿で喧嘩しか取り柄がないと思っていた彼ですが、そのときばかりは、頼もしく見えます。
方向性が決まったところで、ネスがよし、とうなずきました。
普段は進んで目立つ行動や協力的な態度はとらない彼ですが、こういう時は自然と前に出ます。
「では、二班に分かれましょう。まず、板を取ってくる班。これは力が強い人がいいですね。オットマー、ロレンソ、ハル、リュメル、アベルあたりが適任でしょう。残りはここで教室の片付けと分隊全員分の自習の課題をこなす班です」
「俺は工具がいるから、部屋からそれを取ってきたい。別行動させてくんね?」
アベルはそういいました。
「わかりました。では護衛としてロレンソがアベルと行ってください」
「了解」
「とにかく、ばれないうちに全て終わらせようぜ」
「ミッションスタート、だな」
目立ちたがりのシュメルツがここぞとばかりに前に出て、音頭をかっさらいました。
指揮を執ってるつもりになれるから、とてもうれしそうです。いつものことに、みんな苦笑しながらも文句が出ることもなく、それを合図で動き出しました。
時間はあと二十分程しかありません。
材料調達班が出て行っている、その間に教室に残る班で座学の成績上位の者が課題をこなし、そこまで頭の良くない者は教室の片づけと、誰かが通りかからないかの見張りをしました。教室の片付けがあらかた終わり、ルカも見張り部隊に加わるために廊下へ出ました。
「シュメルツ、リクト、そっちはどうだ?」
廊下にはシュメルツとリクトが立っていました。
シュメルツは無駄にかっこつけます。
「フッ……。俺の張った結界に異常はなかったぜ」
「はいはい異常なしだな」
「まあ、ぶっちゃけローイ三曹が様子を見にさえ来なければ、問題はないよ」
リクトがシュメルツの言葉を補足します。
授業中ですので、生徒が出歩くことはもちろんありません。座学の教室は施設の端の方にありますので、教官たちが偶然通りかかることも可能性としては低いのです。
「このままなら何とかなりそうだな」
「うん、ちょっと希望見えてきたって感じ……。板調達班もルート選択ミスらなければ楽勝じゃないかな」
「あ、お前らは教室の中で課題を写し始めてくれ。俺が交代するから」
「了解」
「俺様の頭脳が輝くな」
リクトとシュメルツが教室へ入り、ルカが廊下に立ちました。
腕時計を確認すると、残り時間は十五分。
ここまでくると、発見されることよりも時間との勝負になるでしょう。ルカもリラックスして見張りをします。
しかし、思わぬ伏兵は味方の中にいるものです。
課題をこなしていたはずの、ルイスが教室から出てきました。
嫌な予感がしたルカは彼の進行方向をふさぐように立ちます。
ルイスは立ち止まるとルカをまっすぐと見ました。
誰に言われたわけでも、誰が見ているわけでも、もちろん訓練中でもないのに、背筋はまるで定規を入れられているかのようにまっすぐ。ルカは理由もなくそれに苛立ちを覚えました。
「ルカ! ルイスを止めて!」
リクトとリノが慌てて教室から出てきました。ルカはそちらを一瞥すると、すぐにルイスに視線を戻しました。
「……なにやってんだよ」
「よく考えたら自分たちで隠しておくなんて規律違反です。三曹か伍長に報告します」
「は!?」
予想外のありえない言葉に、ルカは思わず声が大きくなります。ルカは慌てて自分の口をふさぎます。ここまできてばれるわけにはいきません。小声で抗議しました。
「何言ってんだ馬鹿! 頭おかしいんじゃねえの!」
「そもそも、本来ならすぐに報告すべきだったのです。自分としたことが混乱していたようです」
「あのなあ、お前、規律、規律って……」
そらされることのない視線は、それが正解だと心から思っている証拠です。
人を傷つけるのがいけないことだと知らない子どもに、それを説明するのは至難の業です。いけないことならばまだしも、なまじ悪いことをしようとしている訳ではないのが、説得をややこしくします。ましてや、十六年もかけて懲り固めた考えを、覆すのは不可能に近いことかもしれません。
「ル、ルイスさん、どうか考え直してもらえませんか」
リノが泣きそうな顔で懇願します。
リノの頭ならばルイスを説得できるかもしれませんが、いかんせん気が弱すぎます。論理で勝てても、押し負ける可能性が高いのです。なにより、ルイスは、自分が正しいことをしているのだと信じて疑っていません。生真面目で堅物な彼は、その性格故にこうして敵を作りやすい言動をする事が多々あります。
ルカとルイスがにらみ合いをしていたその時。板の調達班とアベル達がほぼ同時に返ってきました。
ただならぬ何かを感じて声をかけてきます。
「どうしたんだ?」
「何か問題が発生か?」
「……なんでもない。はやく中に戻って壁をどうにかしてくれ。リクト、リノも、ここはどうにかするから中で課題進めててくれ」
「わかった。行こう。リノ」
「……わかりました」
ルカに言われ、ハル以外が教室へ入りました。
「ハル?」
「うーん、俺、もしかしてここに残った方がいいかなって」
「……ああ、ありがとう」
ハルはボーっとしているように見えて、何となく自分のできることを察することがあります。
ハルとルカで、進路も退路もふさぐ形をとりました。間に挟まれたルイスは深く深くため息をつきます。
「ルカ・イーゲル二士。自分は貴方に何かしたでしょうか」
「今まさになにかしようとしてんだよ」
ルカが苛立たし気に言いますが、ルイスは首を振りました。
「いえ、そうではなく、前々から事あるごとに自分に突っかかってきている気がするのですが」
自分のことをじっと睨みつける黒い目に、ルカは一瞬ひるみました。
「……別に。自意識過剰なんじゃねえの」
「今日、射撃訓練の時、睨んで来たのは自分の気のせいでしょうか?」
「……」
図星を突かれ、ルカは押し黙りました。
ルイスはルカの返答を静かに待ちます。
撫でつけられた黒髪の上に乗った、白い帽子。こうして帽子まで普段から身に着けているのは彼くらいのものです。
軍服の着方は一応決まりがあります。ですが、正式な場のみの話で、訓練中、作戦行動中、戦闘中にはいちいち言われることはほとんどありません。多少の注意もされるときもありますが、キッチリとした服装を心掛ける暇があればその間に少しでも腕を上げろというのが、カロカイ軍ハイリリバー勢力の方針なのです。
それにもかかわず、ルイスはその服装を乱したことはほとんどありません。
そのひとつひとつにむかついて、ルカはついに彼から視線を外してしまいました。
その時、教室からリクトが顔を出します。
「壁は何とかなりそうだよ。ルカ達も戻って、課題を書き写して」
「わかった。すぐ行く」
ルカが返事をするとリクトはすぐに引っ込みました。
ルカはルイスにまた視線を戻します。
「……無理やりにでも教室に戻ってもらうぞ。おい、ハル」
「うん」
「いえ、自分で戻ります。隠すのはリスクが大きいですが、ここまで放置した自分にも非はありますので……一緒に罪を背負いましょう」
「そうかよ」
じゃあ、最初からそうしろよ、と悪態をつきながら教室へ入ろうとしたルカを、今度はルイスが邪魔します。
「……なんだよ」
「ですが、それよりも、言いたいことがあるなら正々堂々言ってもらいたいのです。このままは気持ち悪いと思いませんか。今後の訓練にも影響があるかもしれません」
何を今更、という言葉を飲み込み、ルカはルイスの肩をぐい、と押します。ですがルイスは引き下がろうとしません。
「しつこいな。気のせいだっつの」
「そうやって湾曲に伝えられるのは苦手なんです」
「……じゃあ言わせてもらうけどな!」
食い下がるルイスに、やけくそになったルカは人差し指を突き付けました。
「お前のその目! 目が嫌いなんだよ!」
「は? 目……?」
「目? 目って、目玉のことだよね?」
今まで二人を見守っていたハルがかがんでルイスの目を覗き込みます。
七三にキッチリ分けた髪と同じ色の真っ黒な目。そう珍しい色でもありません。四八一分隊ならルカやロレンソ、オットマーも似たような色をしています。
思わぬ言いがかりをつけられ、キョトンとしていたルイスでしたが、すぐに合点が行ったような顔をしました。
「……あ、ああ。もしかして睨んでいるように見えたことがありましたか? だったら、すいません。実は昔から目が悪かったからたまに無意識に睨んでいるような目つきをすることが……」
「んなこたぁ知ってるよ! 問題は目つきじゃなくて――」
ルカがまた声を荒げかけたその時。ハルがあっと声を上げました。
ルイスとルカはお互いをにらみつけていた目をそのままハルに向けます。ですがハルの穏やかな緑色の目は臆することなく二人を見つめ返して、今彼が感じている純粋な疑問をぽーんと投げかけました。
「もしかして二人とも喧嘩してる?」
相変わらずこの状況を察せていなかったようです。犬と猿の二人は脱力します。
ルカはそれでいくらか溜飲が下がったのか、ふっと笑い、ハルの肩に腕を回しました。
「いや、喧嘩してねーよ。それより、皆が待ってる。行こうぜ」
そしてそのまま何もなかったことにしました。
ルイスもそれを呼び止めることも咎めることもなく、ルカ達に遅れて教室へ戻りました。
教室では全員が通常の自習の時のように一心不乱に課題をこなしていました。
残り時間は五分。
実際は、リノやネス、エリーナ達が解いたものを、適度に間違えながら書き写しているだけですが、それでも間に合うかどうか怪しいところです。
ルカは後方の壁に目を向けます。
そこはいつも通りただただ壁があるだけでした。穴なんてまったく見当たりません。ルカは思わず近づいてまじまじと穴があった場所を眺めました。恐る恐る触ってみても、へこみもでっぱりもありません。
「やるじゃん、アベル」
振り返って、工具をしまっているアベルに声を掛けました。
アベルとリュメルは課題を提出することがそもそも少ないので、あえて課題には手を付けていません。
アベルはニッと笑います。
「だろ! もっと褒めていいぜ!」
「うわー、急に褒めたくなくなった」
「えー、ひっでー」
軽口をたたきながらルカも自分の席につき、既に終わった人から課題を見せてもらいました。
一心不乱にペンを動かし、ちょうどルカが書き終わったところで終了のチャイムがなります。それとほぼ同時に一緒にローイ三曹が入ってきました。四八一分隊に緊張が走ります。
「すみません、自習お疲れ様です。回収をしますので、後ろから回してください」
全員は慎重に課題を前へと集めました。いつも通りを装っていますが、内心バクバクでローイ三曹の様子を伺います。
ですが、ローイ三曹は課題を抱えると、あっさり号令をかけ、教室を出ていきました。
十二人は一斉に息を吐きます。
「あー! 怖かった!」
「とりあえずばれなかったな」
「な? 俺だってやるときゃやるだろ?」
「さすがだね。もしかして、既に何個かごまかした穴があったりして」
リクトが冗談めかして言うと、アベルは真顔になりました。
「……な、なんでわかったんだ?」
「え、まじ? 今結構適当に言ったんだけど」
「なっ、てめ……!」
「おいおいまじかよアベル」
「ある意味スゲーな」
どっと笑う四八一分隊。
とりあえずバレなかったことに、皆、肩の荷が下りたようです。
もちろんこれからばれるかもしれないという不安はありますが、それでも、やっと緊張が解けました。ただ、ルイスは納得のいかない顔をしているのに気付いたルカは、しばらく彼の動向に気を付けました。
いつ告げ口をされるかわからないからです。
しかし、それから数日経ってもばれる気配はありませんでした。ルカは「結局口だけかよ」、とルイスの印象を悪くしましたが、それ以外の実害はなく、日常に戻っていきました。