第五話 第四章「しらね」

ズンズンと進んでいくジェンの後ろからついてく。 寝癖だらけの鶯色の髪が歩みに合わせてふわふわと揺れている。 昨日まで張っていた北にある森まで来たが、いつもより奥まで進んでいる。 まだまだずっと先なのにもかかわらず、アルトはこのさきにあるネロタの冷気を感じた気がして、自分の両腕を擦った。 「まさか、ここを抜けてネロタ街まで行くつもりか?」 「そうしたいのはやまやまだが、今はしない。お前に教えた場所は、もう警戒されてるからちょっとずらすんだよ」 よく考えれば警戒されていて当然だ。 イェピカが寄り付きさえしなかったのは、アルトが殺気立っていたという以外にそういう要因もあったからだろう。 彼女はバカの一つ覚えのようにずっと同じ場所に通っていたのだから。 「ここらでいいかな」 そう呟くとジェンは、手のひらに収まるくらいの木でできたボールと、長い紐を一本取りだした。 「なんだそれ?」 アルトの質問には答えず、中央に開いている大きな穴に紐を通し括り付けると、振り回し始めた。 ジェンの手首を起点にボールがくるくると回る。 すると、ボールに空いた穴に風が通り、ガーガーと音を響かせた。 五月蠅い音が森中にこだまする。 アルトは思わず耳をふさいだ。声も自然と大きくなる。 「こんな音出したら、余計に逃げていくんじゃないか!」 「この音はな! 奴らの警告声に似ているらしくてな! これを聞くと、一斉に襲い掛かってくるんだ!」 「はァ!?」 一斉に襲い掛かってくる。 ジェンがそう言ったが早いか、疑似警戒音に紛れて、バサバサバサという聞こえ始めた。 イェピカの羽音だ。近づいてきている。 しかもそれは一匹や二匹の羽音じゃない。 間もなく黒い塊が四方八方から、津波のような音を立てながら迫っているのが迫ってきた。 「イェピカの大群があらわれた。なんてな。大量大量」 上から聞こえてきたカラカラと笑う声に反応して、アルトが勢いよく上を見た。 木の上には、いつの間にか避難しているジェンがいた。 「あっ、てめ、また……!」 イェピカの一軍がアルトに体当たりをしてきたため、慌てて避けて攻撃態勢に入る。 文句を言う暇はなさそうだ。 どこを警戒すればいいのかわからない。数が多いにもほどがある。 「イェピカは目を狙ってくるから注意しろよ」 「いや、それより、ちったあ手伝えって!」 「別に死にかけてるわけじゃねえんだろ? 後は任せた」 ぐっと親指を突き出され、協力要請を諦めた。 経験からして、こういうとき彼女に何を言っても無駄だ。 「ただ、この方法だと小物ばっかな上に大変なんだよなあ」 ジェンは紐を回しながら他人事のようにつぶやく。 つぶやきの通り、来るのはすべて目玉が一つか二つ、どんなに多くても三つの小物ばかり。 「大変なの私だけだけどな!」 もともと数が減少しているから来ていた依頼。 こんな大量な狩を行って生態系が崩されるのではないかと、一瞬アルトの頭によぎった。 彼女の戦闘スタイルだとほとんどをつぶしてしまう。 だが、そんなことを言っていたら両眼をくりぬかれてしまう。 余計な思考は大きく武器を振り回し、二つ目と共にをかっ飛ばした。 野球なら文句なしのホームランだ。 「おいおい、ぶっ飛ばしたら目的の素材拾いに行けねーぞ」 「わぁってるよ!」 苛立たし気にアルトは近くの三つ目に振り下ろした。 「潰すのも……」と言いかけるジェンをひと睨みして黙らせる。 「つーかこんな方法あるならなんで先に教えねーんだ! 私の数日間を返せボケェ!」 「お前が一人でやるつったから」 「そういう問題じゃないだろ!」 そういう問題でもあるだろう。 「なんでお前は」 「道具屋に頼んで、昨日やっと入荷したんだよ」 怒りでヒートアップしかける声を押しのけて、ジェンは面倒くさそうに言った。 思ったよりちゃんとした理由に、アルトは思わず一瞬動きを止めるが、すぐに戦闘に戻る。 怒鳴り散らして恥ずかしいやら、 なんだかんだと言いながらちゃんと動いていたことがうれしいやらで どういう態度をしていいのか判断がつかず、混乱しそうになった。 実際、今でも何を言えばいいのか、言葉を探すが見つからない。 だが、ジェンの次の言葉にその混乱が吹っ飛ぶ。 「せっかくツッコミに高値で売ろうと思ったのに、収穫分全部パアになったから、それどころじゃなくなったんだよなあ」 ちゃっかりを通り越してがめつい企みが、冷ましかけたアルトの怒りをふつふつと沸騰させた。 「……お前な!」 「うっせーな。ほらもう一団体到着するぞ」 ジェンが促した先には、黒い塊が確かにこちらに向かってきていた。 寄って来たモンスターは全部倒した頃には、夕方になっていた。 空が青から紫、ピンク、オレンジのグラデーションに変化している。 アルトは最後の一匹を倒すと、武器を放り出してぜーはーと腰を下ろした。 ジェンはまた北の方を向いてぼーっとしている。 「おい、終わったぞ。どこ見てんだ」 「……別に。それより、帰ろうぜ。腹減った」 「そうだな……」 同意して、アルトが立ち上がったその時。 ふっとあたりが暗くなった。 驚いて空を見上げると真っ暗闇がそこにあった。 分厚い雲で太陽が隠れたのではない。 夜がやってきた。 そう言うにふさわしい闇が空に広がっていた。 だが、そんなに突然太陽が落っこちるわけがない。 二人は何が起こったのかを見極めようと目を細めると、空を覆う"夜"は星が瞬くかのようにいくつかの目を開いた。 それらは、開いたり、閉じたり、ぎょろぎょろと何かを探すように好き勝手に動く。 トライフォビアが見たら発狂物の光景だろう。 幸運にも二人とも集合体恐怖症ではなかったが、それでもかなりきもちわるい。 それはあたり一帯の空を覆うほど巨大なイェピカだった。 「おい! 主役のご登場だぞ! 大物だ! こいつを捕まえれば一気に……」 ジェンは弓矢を構えたがすぐに降ろして、舌打ちを打った。 「射程範囲外だな……打っても無駄弾になるか…」 「……それなら」 アルトはジェンの乗っている木の幹に抱き付いた。 そしてその木を根ごと引っこ抜く。 大きく揺れた足音に、さすがのジェンもたまらず悲鳴を上げた。 「うわ!? おい、ツッコミ!? なにして……」 「うまく着地しろよ!」 そう言って木を思いっきり振る。 他の木々が邪魔でフルスイングとまでは行かなかったが、ジェンを遠心力で放り出すことには成功した。 ジェンはイェピカに向かって悲鳴を上げながら一直線に飛ばされた。 宙に放り出されながら、ジェンは何故か家族のことを思い出していた。 嗚呼、これが噂の走馬燈かと、どこか対岸の火事を眺めるかのように思っていると、急に空中で進行方向が変わった。 ゆっくりと旋回している。 ジェンには浮遊能力どころか、自分を浮かせられるだけの魔力もない。 視線を上に動かすと、赤い髪と翼が見えた。 青紫の目がジェンの顔を覗き込む。 「大丈夫?」 「……レイブンだったのか」 どうやらレイブンが空中でキャッチして、勢いを殺してくれたらしい。 ジェンはほっと脱力して素直にお礼を言う。 「ああ……助かった。ありがとう」 さすがにイェピカにしがみつくのも、どうにか着地するのも困難だったため、かなりのピンチだった。 そのままそっと地上に降ろしてもらうと、ジェンはアルトを睨みつける。 「ったく、殺す気かよ!」 「なんだよ! あれくらいできるだろ!」 「じゃあてめえがやれ!」 仲間割れをしている間にカノンがゆっくり合流した。 「あ、レイブンお疲れー。間に合ったみたいね」 「うん、人が飛んで行ったのを見たときはびっくりしたよ」 邪魔されて不機嫌な顔をしているアルトと、助けてくれたレイブンや笑顔で話しているカノンを見ると、どちらが敵か味方かわかりゃしない。 ジェンはため息をつき、とりあえず、味方のであると思われるアルトの横に並んだ。 それを見て、カノンとレイブンも敵らしく、二人と対峙する格好になった。 「もー、なんで諦めてくれないかなあ。せっかく楽できそうだったのにぃ」 「やっぱりあの猫の大軍、お前等の仕業か!」 アルトが言うと、レイブンは肩をすくめた。 「んーん、ノータッチだよ。なんであんなことになったのかは、こっちもわかんない」 「ラッキーって感じだったよね」 「こっちはラッキーじゃねえんだよ!」 どうやら例によって見張っていたからか、なにが起こったかは知っているらしい。 「それにさぁ、あたしがつかうならもっと他の動物っぽくない?」 話をそらすためなのか、それともふと思ったことが口から出たのか、レイブンが後方へと去っていく巨大イェピカを見上げながらポツリと言った。 「……そういや、烏ってレイブンって言い方あるよな……」 ジェンの言葉にアルトもはっとした。 もしもレイブンがカラスを使役しているなんてことになったら厄介だ。 ましてやイェピカとしゃべれるだの操れるだのなんてことになったらもうお手上げになる。 「いやまあ、あたしの名前とカラスは全然まったくこれっぽっちも関係ないんだけどね。あたし竜だし」 せっかくの緊張や、危険性はレイブンがあっさりうち砕いた。 反動でアルトもジェンもずっこける。 「じゃあ思わせぶりなこと言うな!」 「いや、誤解されたら面倒だなって思って。それなら、今のうち言っておこうかなって」 「あー深読みする読者とかいそうだよな」 「メタ発言するんじゃねえよジェン!」 ツッコミで体力が削られ肩で息をするアルト。 ふとレイブンたちの後方を見ると、イェピカの巨体が木々の中に飲まれていっていた。 このままでは逃げられてしまう。 今はジェンとのおしゃべりに気を取られている。 今ならしれっと抜け出せるかもしれない。 アルトがじりじりとその場を離脱しようとしたところ、分厚く、高い壁が、アルト達を囲むように出現した。 さながら氷の檻だ。ひやりとした冷気が肌に触れる。 「おっと、行かせないわよ。あれが逃げ切れば面倒が減るんだから」 氷の壁の上に座って頬杖を突くカノン。 彼女がこの檻を一瞬で築き上げたのだろう。 どうやら彼女は、氷の魔法が得意らしい。 戦闘は避けられそうにない事が分かり、アルトは杖をハンマーに変えた。 「ってかよく考えたら私たち二人とも後衛じゃねーか。バランス悪いな」 「いや、お前前衛だろ」 アルトの発言に思わずジェンがツッコミを入れた。 それを無視して、アルトはハンマーを壁にたたきつけた。大きなひびが入る。 それを見てジェンは繰り返す。 「ほら、やっぱお前前衛だって」 ヒビが入ったところにもう一発。 今度はこぶしを叩きつけた。 ぼこっと音がして、開いた穴が開く。 カノンを一瞥するが、彼女は退屈そうに欠伸をしていた。 かなり余裕そうなその態度がカチンと来る。 「ソフィアたちを呼びに行く時間はなさそうだし、仕方ないからこのままいくぞ!」 そういって、穴から出ようとしたところ、火噴き出した。 思わず飛びずさり、警戒しながら穴の中を覗き込む。 氷の穴の向こうからレイブンがこちらを覗いていた。 ニコリと笑顔を浮かべると、大きく息を吸って炎を吐いた。 アルトはまた大きく飛びのく。 「な、な、なんなんだよ!?」 「言ったでしょ? 竜だからさ、あたし。これくらいならできちゃうんだ」 竜だと言ったのは見た目だけの話じゃないらしい。 炎を吐くレイブンと、氷で足止めをするカノン。 戦い方を見ていると、どうやらこちらに致命的な危害を加えるつもりはなさそうだ。 目的はあくまで巨大イェピカが逃げるまでの時間稼ぎ。 「さ、ちょっとあそぼーよ」 レイブンは穴からこちらにでてきた。 氷の檻は炎の熱で少々汗をかいていたが、すべて溶けるには至っていない。 炎を加減しているのか、もしくは溶けた端からカノンが補修をしているか強化をしているのかもしれない。 戦ってるふりして相手に氷を溶かしてもらうという作戦は使えそうにない。 隙を見て自分で砕くしかないだろう。 氷の壁の上をにらみつけるといつの間にかいくつかの氷像が出来上がっていた。 暇つぶしに作っていたらしい。 その中に紛れるようにして立っているカノンが大きくあくびをして飛び上がる。 空中に浮いたままアルト達を見下ろすカノンは、数秒何かを考えた後、ゆっくり口を開いた。 「飽きちゃったや」 「……は?」 「アイス買にいこおっと。いいでしょ? レイブン」 「うん、たぶん大丈夫だよ」 「やったー」 そういってカノンはイナエ街の方へ飛んで行ってしまった。 本当に離脱したようだ。 それにしても、なぜ突然飽きたのか。 理由はわからないがラッキーに変わりはない。 後はレイブンただ一人。 ジェンが囮になってくれれば、問題なくここを抜けられる。 レイブンは飛んで行ったカノンに向かってのんきにも手を振っていて、こちらを見ていない。 今がチャンスだ。 「おい、ジェン……」 自分の意思を伝えようとジェンの方を振り返ると同時に、彼女は矢を放った。 矢はアルトの髪を掠める。 驚いて振り返ると、レイブンの肩に一本の矢が刺さっていた。 「おま、あぶねえだろ!?」 「動くから危なかったんだよ」 「じゃあせめてなんか言えよ!」 「無茶言うな。今から矢放つなんていちいち言ってられっか」 「にしたって……」 「ねえ、これ痛いんだけど」 二人の喧嘩を遮って、レイブンが抗議の声を上げた。 肩からは血が伝っているが、まだ動けそうだ。 アルトがハンマーを構えなおしたのを、ジェンが制した。 「それ以上戦う必要ねーよ。痺れ矢だから、じきに動けなくなる」 アルトは、以前誤って受けてしまった矢を思い出す。 かすっただけでも、あんなに不自由したのだ。 まともに受けたらしばらくは動けまい。 「あと一人は任せたぞ。わっちはもう仕事したからな」 「ああ、まかせとけ」 なにはともあれ、アルトは改めてカノンの築いた氷の壁に穴をあけた。 もう邪魔できる者はいない。 そこを潜り抜け、森の中を覗き込んだ。 遠いが、大きさが大きさのため、奥の方で無数の目玉がまだ動いているのが見えた。 見失わなくてよかったと安堵しながら、踏み込もうとしたその時。 後ろから声がかかった。 「はいストップ」 見ると、ジェンがレイブンにとらえられていた。 後ろ手にされ、動きを封じられている。 「聞いてただろ、お前はもうすぐ動けなくなる。おとなしく諦めて……」 「いやー、あたし、毒とか痺れとか効かないんだよねえ。残念賞」 ニッコリと笑うレイブン。捕まっているジェンはポリポリと頬を掻いた。 「まあ、確かに本来なら今頃動けねえんだよな」 「なんだよそれ!」 「うるせーな。仕方ねーだろ。効かなかったんだから」 アルトはがっくりと肩を落とす。 「……さ、動いたらこの子がどうなるかわかるよね?」 ジェンの首に回った手に力が入るのが分かった。ジェンは苦しそうに、声を絞り出す。 「ツッコミ、わっちは大丈夫だから獲物を追え」 「でも……」 「いいから!」 アルトは迷いながらも駆けだした。慣れない森の道を夢中で直進する。 イェピカにあとすこしで到達する。 ハンマーを握りなおしたその時。 レイブンが追い付き、回し蹴りの要領で尻尾を振り回した。慌ててガードする。 女性とは思えない重い一撃。アルトほどではないが彼女もかなりのパワー型のようだ。 フットワークも軽快で空も飛べる分、アルトの方がどう考えても不利。 レイブンの攻撃をよけたり防御しているうちにイェピカから引き離されていく。 「ジェンはどうした」 「気になる? 喧嘩してなかったっけ?」 レイブンはからかうように言ってまた尻尾を繰り出した。 「それは……! そうだけど、それとこれとは……」 尻尾の攻撃の後、レイブンはこぶしを大きく振りかぶる。レイブンの拳が顔めがけて飛んできたその時。 パァンと何かが破裂する音が聞こえてきた。 次いでまるで大粒の雨のようにぼたぼたぼた、と葉に当たり音を鳴らしながら何かが降り注ぐ。 雨ではない。 雪でもない。 もっと質量のある何か。 何が起こったのかわからず、気がそれてしまったアルトは思わず動きを止めたが、 レイブンは止まることができず、そのままアルトの顔面に拳がクリーンヒット。アルトは後ろに吹っ飛んだ。 空を仰ぎながらゆっくりと倒れた。 次に目が覚めた時にはもう夜になっていた。 あのイェピカの目より小さい光を放つ星が瞬いている。 「お、目ぇ覚めたか」 傍らにいたジェンが顔を覗き込む。 白い顔がいきなり眼前に現れておもわず悲鳴を上げそうになった。 「ったく新入りに死なれたら、目覚めわりーし、わっちが無能みたいじゃねーか」 「……一体何があったんだ?」 むくりと起き上がる。 まだ頭がふらつく。 右目の上には薄く青あざがついていた。 その程度で済んでよかったと喜ぶべきかもしれない。 「あの竜そそのかしてお前追わせたんだよ。わっちはその間に巨大イェピカ倒したってわけ」 ほら、といってバケツを取り出した。 そこにはあふれんばかりの目玉が入っていた。 依頼達成には十分な量である。 アルトは一瞬顔を輝かせたが、すぐに眉間にしわを寄せた。 「てめえ、私を囮に使ったのか」 「お前チョロイよな」 「んだとこら!」 あの雨でも、雪でもないものは、目玉だったのだ。 ジェンに倒されたあの巨大イェピカの目玉だったのだろう。 想像するとなかなかに不気味な光景だ。 「とりあえず帰ろうぜ。あの二人が戻ってきたら厄介だ」 ジェンの言葉に同意し、二人はイナエヘと帰る。 そういえばカノンはともかくとして、レイブンの姿は見えない。 聞くと、アルトが気絶した後、すぐに帰ったらしい。 アルトにごめんね、と伝言してくれと頼まれたとのこと。 やはりここまで攻撃するつもりはなかったのだろう。 イナエに帰りながらアルトはジェンをチラリと見やった。 彼女のおかげで助かったし、集めることができた。 色々迷惑はかけられたかもしれないが、それは事実だ。 「……なあ、ジェン。その、えーっと……」 「あ? なんだよ。気持ち悪ぃな」 「なんだと、この……!」 また、怒鳴りかけようとして、頭を振る。 「じゃなくて、だな。えーっと……」 たった数文字。「ありがとう」「すまなかった」その子どもにでも言えるような言葉が、のどにつっかえて出てこない。 性格とプライドが邪魔しながらもどうにか伝えようとしたその時、猫が通りかかってアルトの持っていたバケツをかすめ取るとどこかへ走り去ってしまった。 呆然とする二人。ジェンはデジャヴを感じて頭を振った。 「おい! ボサッとしてんな! 追いかけるぞ!」 「あ、ああ!」 二人は慌てて駆けだした。 猫は身軽に、ある店の屋根に飛び移ろうとしている。 アルトがどうにか登れないかと一瞬目をそらせたその時。 猫がなにかにはじかれて落ちた。 「ツッコミ!」 ジェンが叫ぶより先にアルトの体が動き、バケツが地面にたたきつけられる前にキャッチした。 いくつか目玉がちらばった。 次いで、無理やり地面を蹴って猫に手を伸ばす。 が、猫はアルトの頭を経由し着地。 不満そうに「にゃおん」と鳴くと、どこかへ去ってしまった。 猫は無傷なようだ。代わりにバケツには矢が刺さっていた。 振り返るとジェンが弓を片手にかけよってきていた。 動いている標的にもかかわらず猫本体ではなくバケツだけを狙って打てるとは、普段はふざけているが、ちゃんと腕を持っているらしい。 「……ナイス」 笑って親指を突き立てジェンに返事をする。 「この前といい、猫が目玉に何の用だったんだ?」 アルトは首をかしげながら立ち上がる。 今度は簡単に取られないようにバケツを抱きしめるように持った。 ジェンはけだるげに頭に手を回しながらもあたりを警戒しながらアルトの隣を歩く。 「さあ、食ってんじゃね?」 「猫が?」 「数が少なかったのは猫が食ってたからだったりして」 「でも、猫がイェピカ食うってのはあまり聞いたことないぞ……しかも目玉を好んでとか。鳥だから捕食対象になんのか?」 「しらね」 ともあれ、これで依頼達成条件はクリアできた。 あとは依頼人のめろなに渡すだけ。 やっとそこまでこれた。 一つ気がかりにけりがつきそうで肩の荷が下りたアルトだったが、結局、ジェンに謝罪もお礼も言えないままだった。

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