第七章 第二話「たかが虫されど虫よ!」

お腹いっぱいになったからだろうか。敵がここまで追いかけてくることがないからか、あるいは仲間に会えた安心からか、アルトは昼間に比べて少しリラックスしていた。 『仲間?』 馬鹿にしたように鼻で笑う声耳元で聞こえた。アルトは驚いて辺りを見回す。 自分たちに以外に何もいなかった。 「どうかした?」 「……いや、なんでもない」 アルトは首を振る。 気のせいなんかではない。たぶん、あれは自分の声だった。自分の心の声。 そうだ。何を浮かれているんだ私は。仲間だなんて。 自分の面倒を見るので精いっぱいなのだから。アルトは鼻で息を吐いた。 半ば騙されて、だが自分で彼女たちの手助けをすることにはなったが、仲間ではない。 これはいわばビジネスライクな関係だ。すべてが終わったらまた一人にならなければならないのに。 「ヒッ! イヤァ!?」 突然ソフィアが悲鳴を上げ、勢いよくその場から飛びのいた。アルトは驚いて思わず腰を浮かせた。 「なんだ!? どうした!?」 敵がこんなところまで追ってきたのかとあたりを見回した。少し遅れて杖を持ち上げる。 しかし、それらしき影は見当たらない。 アルトがソフィアの方を見ると、彼女は震える指で今まで自分が座っていたところを指さした。 「む、む、虫! 虫……! 虫がいたの!」 「……はあ? 虫?」 見ると確かに、ソフィアが座っていたあたりに、足が多めの虫がうごうごしている。 アルトは虫が苦手でもないが、得意というわけでもない。 なんの虫かはわからないが、不快害虫な見た目をしているそれを、さすがに素手で触りたくはなかったので、落ちていた枝を使って遠くへ放り投げた。 「ほら、もういないぞ」 パンパン、と手をはたきながら言うが、ソフィアは焚火の近くから動こうとしない。 よほど苦手なのだろうか。彼女にも案外かわいいところもあるじゃないか、と苦笑した。 見た目は悪くないのに、着飾ることには無頓着で、戦う時だけ笑顔を見せるようなソフィアの弱点が、まさか虫だなんて。 笑っては悪いと思い、笑いをこらえながらそっと近づいてもう一度声をかける。 「ソフィア、もう大丈……」 だがソフィアはその言葉が言い終わらないうちに、勢いよく振り向いた。 彼女が手に持っているものが当たりそうになり、アルトは身を引く。 先ほどからソフィアの背後から話しかけるととろくなことがない。 そういえば初対面の時も振り向きざまに攻撃を喰らった。 ひょっとしたら、背後に回られるのが苦手なのだろうか。とアルトはチラリと思う。 「お、おい! ソフィア! なにやってんだ! 危ないって!」 彼女は炎を持っていた。 正確には、急ごしらえで作ったであろう、即席松明を持っていた。 「燃やさないと、虫は燃やさないと、全部燃やさないと……!」 何かの使命感に駆られたかのように松明を振り回す。 これはさすがに笑えない。 アルトはソフィアを羽交い絞めにして抑え込もうとしたが、暴れる彼女を抑えるのは至難の業で、襟首をつかむのが精いっぱいだった。 あばれるソフィアに振り回され、蹴りを何発かもらいながら、なんとか松明を無理やりむしり取る。 ぜえぜえと息を切らしながら、すばやくソフィアと距離を取った。 「返してよ!」 「こんなん振り回したら火事になるだろ!」 「だ、だって……」 「だああ! だってじゃねえ!」 アルトに叱咤され、少しは冷静さを取り戻したのか、しょんぼりとするソフィア。 「俺、駄目なのよね虫……。あれだけは、どうしても……滅さないとって……」 「お前よく野宿しようと思ったな!? そりゃ虫くらいいるだろ!」 そんな彼女を見てアルトはため息をついた。このままここで寝泊まりができるわけはない。 「まったく、問題が増え……」 今度は羽の生えた虫がソフィアに向かって突っ込んでいった。 悲鳴を上げ、ソフィアはまた松明を奪い取ろうとする。 アルトはあわててそれを阻止した。 「だからあぶねーって!」 公園は草木が多く、燃やすのにちょうど良すぎる。 こんなところで火を不用意に振り回したら火事になる危険性がある。 アルトが水の魔法でも使えるのならまだいいが、生憎、やり方や呪文を知っていても火を消すほどの威力は出せない。 否、あのバケツ一杯のイェピカの目玉を浴びればあるいはそれもできるかもしれないが、まず火事を起こさないようにするのが一番だ。 「頼む、深呼吸してくれ。一旦落ち着こう」 「俺は冷静よ!」 「まず鏡で今の自分の姿見てから、冷静って文字辞書で引いてこい!」 「今なら大陸中の虫を絶滅させられるくらい冷静だわ!」 「冷静な人間は生態系ぶっ壊そうとしねえよ!」 アルトはじりじりとソフィアから距離を取る。 水場は少し離れたところにある。 だがそこまで走って行っている間にソフィアは次のたいまつを作り始めるだろう。 万が一の時は、アルトは足元に置いたバケツをチラリとみる。 夜より黒くなることを覚悟しなければならない。 そうすればアルトにでも水魔法が使え、すぐにでも火を消すことができる。 今すぐにでもそうした方が手っ取り早いのはわかっている。 しかし、アルトがそれを最終手段にするのは、影女になりたくないだけが理由ではなかった。 実は一つ、誰にも言っていないことがある。 カノンとレイブンに追い詰められ、イェピカの目玉が謎の爆発をした時のことだ。 『うわ!? な、なんだなんだ!?』 『え。ちょっと君大丈夫? 一体何事なの?』 『爆発したのって、バケツ……?』 周りが混乱している中、アルトもイェピカの目玉に塗れて呆然としていた。 見た目は真っ黒なのに対して、頭の中は驚きで真っ白。 何が起こったのか、自分がどうなっているのか、どうすればいいのか、わからないどころか考えることもできていなかった。 『……』 『……ツッコミ? お前、ブツブツなに言って……』 はずだった。 なのに、気が付けば口が勝手に呪文を唱え始めていた。 ジェンの声でそのことに気づいたが止まらない。 腕までが自分の意志と関係なく動き始めた時点で、やっとおかしいことに気がついた。 杖はまっすぐにジェンを向いている。 『びっくりして、おかしくなっちゃった?』 『おーい、アタシたちの声、聞こえてる?』 敵である自分たちが近づくとさらに動揺すると思ったのか、誰も立ち位置を変えることなく、アルトに呼びかける。 その声は輪郭が少しぼやけたように、アルトには聞こえていた。 自分の体を動かそうとすることに精いっぱいになっていたからかもしれない。 どんなに力を入れても或いは抜いても、体は微動だにしない。口は閉じることもできない。 『……ッ!』 呪文が完成する直前に間一髪、アルトが無理やり腕を下ろした。 それが足元の氷を溶かす形になったのは幸運だったが、もしそうできていなかったら同じ火力がジェンを包んでいたことになる。 なにかに体を操られていたとしか思えない。 でも、誰に。どうやって。 あの場にいた全員には怪しいそぶりは見られなかった。 真相はわからないが、もしもイェピカの目玉の副作用だったとしたら。次は抵抗できるかわからない。 「一回公園を出よう? な? 街の方なら虫も少ないだろ?」 「邪魔するなら……!」 ソフィアは剣を抜いた。 「容赦しないわ!」 いつもに増して目が本気である。 あの楽しんでいるような狂っている感じはなく、切羽詰まっている。 どれだけ虫が嫌いなのだろうか。 「いやいやいやいや! まて、待て。落ち着けって、たかが虫に……」 「ヤバイ」と思う。 単なる力勝負ならアルトは余裕で勝てる自信があった。 たしかにソフィアは非力だが、それを補うかのように小さい分小回りが利いて、戦闘経験も豊富なのだ。 一対一の戦闘において、アルトが敵う相手ではない。 松明をなんとか取り上げることができたのだって、それほどソフィアが冷静さを欠いていたからに過ぎない。 このままでは松明を奪われるのも時間の問題だ。 「たかが虫されど虫よ!」  そういって、ソフィアは松明めがけてレイピアを振った。 アルトもろとも真っ二つにする勢いだ。 松明が真っ二つになっても、アルトが真っ二つになっても、松明を奪われてもこの公園が火の海になるビジョンしか浮かばない。 命がけで松明を死守していると、ふいに手から松明が離れた。 ソフィアに奪われたのではない。 落とした、とアルトはさっと顔を青くしたが、そうではなかった。 アルトが後ろを振り向くと、長身の男がそこにいた。手には松明を持っている。 「……こんなの……持って遊んでたら、危ない……」 どうやら注意しようと取り上げたらしい。 「ラックさん!?」 炎に照らされて控えめに輝く銀髪の彼に、アルトは驚いて彼の名を叫ぶ。 ラックも驚いたように目を少し見開いた。 「……アルトちゃん……だったの。……久しぶり。あれ、それに、ソフィアちゃん……? 二人とも……なに、やってるの……?」 ボソボソと話す彼の口から自分だけではなく、ソフィアの名前がすんなり出てきたことに、アルトは更に驚いた。 「え、ラックさん、こいつの事知ってるんですか?」 「うん。……二人、知り合いだったんだ」 だが、そんなのんきな会話をしている場合ではなかった。 「ちょっと! ラックさん! それ! 返して!」 「ソフィアちゃん……こんなので遊んだら……危ないって……」 ラックはかなり身長が高い。ソフィアの身長は150cmに満たないくらいだが、彼女に比べて、ラックは頭二つ分は高い。 だから、その彼が松明を持った手を上にあげているものだから、小さいソフィアがいくらぴょんぴょん飛んでも届くことはない。 その光景が少し可愛くてアルトがくすりと笑ったその時。 ソフィアは素早くしゃがんでラックの足を払った。 突然の足への攻撃に倒れるラックにソフィアがとびかかる。 なんとかそれを避けると、ラックが1秒前にいた地面にレイピアが刺さった。 アルトだったらそこで容赦なく叩き潰されているところだ。 「危ないって……!」 ラックは青い顔をすると、ソフィアはゆらりと立ち上がった。 「咄嗟に避けられるなんて、流石ラックさんね。でも、次こそ取るわ。覚悟して!」 「何を……? 首を……!?」 それくらいためらいなくやりそうなくらいの殺気がある。 「だあああ! ソフィア! 頼むから落ち着いてくれ! 止まれって!」 アルトも最初はラックに加勢してソフィアを抑えようとしていたが、そのうち二人の動きについていけなくなった。 まるで休日に子どもと遊ぶ運動不足の父親かのように、目で追うのが精いっぱいだ。 下手に手を出すと、アルトの方が危ない。 「……しかたない……!」 ラックはどこから出したのか、小型のナイフを投げた。 刃も柄も黒く闇夜に紛れて見えにくいそれを、ソフィアは危なげなく剣ではじく。 それくらいは想定内だったようで、ラックは驚く様子もない。 二人はお互いの実力を把握しているようだ。 「……俺も本気出す……覚悟……して……」 「その割には急所から外れてたけど。嘗めないでくれるかしら?」 目的を見失っている様子のソフィアを見据えながら、先ほどのナイフと同じデザインの物を何本も指に挟んだ。 松明を持っていない右手で四本。 彼女を相手に片手というハンデは痛すぎる。 ジリジリとにらみ合い、ラックが先手を打とうとしたその時、彼は一瞬にして水浸しになった。 「……え」 突然のことに動きを止める二人。水の飛んできた方を見ると、真っ黒な塊がいた。 「こ、これで……戦う理由はなくなっただろ……ったく……」 黒い塊はアルトの声でそう言った。 そしてまだ残っていた水を焚火に近づくと、呪文を唱えて水を出して消化した。 松明も焚火も消化され、あたりは暗くなると、ラックは息を切らせ、どさっとその場に座り込んだ。 「…………ありが、と。アルトちゃん……あー、危なかった……」 「い、いえ……」 アルトも慣れない魔法を使ったせいか、息を切らせている。 ぜーはーと呼吸をする二人に対し、ソフィアだけが平然としていた。 視界が暗くなったからか、目先の目的がなくなったからか、様子はいつも通りに戻っていた。 冷静にアルトの持っているバケツを指さす。 「アルト、まさかそれかぶったの?」 「しかたねえ、だろ、他に、なかったんだか、ら」 アルトは結局、イェピカの目玉だったものを入れたバケツをひっつかみ、中身を頭上からぶちまけたのだ。 副作用という線は薄いとは思っていたが、完全に否定はできなかったので、少々勇気がいった。 結果、今回は操られている感覚はなく、上手い具合に魔力の強化が行えた。 目玉の副作用で凶暴化、もしくは錯乱したわけではなさそうだ。 では、あれは一体何だったのだろうか。 「というか、ほんと……二人とも…………こんなのところで……こんな時間に……なに、してんの……危ないよ……」 「俺が? 危ない目に合うと思う?」 「……どっちかっていうと、君が危ない人の方……」 「ひどいわね、ラックさん」 なんとなく、ソフィアの雰囲気が柔らいだ気がした。 ただの知り合いではなく、付き合いが長いのだろうということが垣間見える。 アルトはそのことに驚きつつも、とりあえず自分たちの状況を説明した。 するとラックは呆れたようにため息をつく。 「……野宿なんてしなくても……言ってくれれば……よかったのに……店の場所、わかるでしょ……?」 「いや、まあその……うっかり、忘れてて……」 アルトは言葉を濁す。 まったく思い浮かばなかったわけではない。 だが、ラックを頼るのはかなりの最終手段だった。 アルトとしては頼らず解決したかった、というのが本音だ。 「……そう。……とにかく、移動しよう。……ほら、荷物もって……ついてきて……」 ラックの後についてアルトとソフィアは公園を出た。 夜のモンゼルクは昼とは違う賑わいを見せている。 同じ時間、酒場だけが騒がしいイナエとはやはり違う。 「ラックさんの店、行くの久しぶりだ」 影のように全身真っ黒なアルトがアルトいていても奇異の目では見られない。 ここでは本当にたくさんの人が行き来しているため、変わった格好の者は珍しくないのだろう。 「……そうだね……去年、一回来てくれたっきり……? トーセの方には……帰ってるの……?」 ラックが聞くと、アルトは気まずそうに眼をそらした。 「……あー、えっと、その……あ、あんまり……?」 明らかに嘘をついている顔をごまかすように、アルトは真剣な表情でラックを見上げた。 「私に会ったこと、兄貴には言わないでくださいね」 「……うん……。わかってる……」 ラックは特に表情を変えることなくコクリとうなずいた。その会話にソフィアが首をかしげる。 「アルトって、トーセ出身だったの?」 先ほどまで公園で暴れまわっていたとは思えないほどの落ち着きっぷりだった。 アルトはそのポーカーフェイスなのか素なのかわからない無表情にあきれながら、「まあな」とそっけなく答えた。 あまり自分のことは話したくはなかったが、ばれてしまっては仕方がない。 ソフィアはこれで合点が言ったようにうなずいた。 「どうりで、俺がトーセに行ったって言った時、様子がおかしかったのね」 「べ、別にそういうわけじゃない」 そのとおりだった。 実はソフィアがトーセにいると聞いた時、兄の差し金、素行調査など、いろいろな可能性が頭を駆け巡っていたが、杞憂に終わった。 結局のところ、ソフィアはアルトの故郷であるとは知らずに、本当に偶然トーセへ訪れただけだったのだ。 「……そ、それよりソフィアは結構行くのか? ラックさんの店」 「ええ。俺、ラックさんと、サタンと良く仕事をするの。だからその待ち合わせとか、打ち合わせとか。おしゃべりに使わせてもらってるわね」 ラックともう一人の名前はアルトに少し聞き覚えがあった。 「サタンってあれか。ジェンの相棒っていう」 「そう、そのサタン」 名前とartの面々から聞いた情報から、サタンという人物は、ろくな人物ではないとアルトのイメージは固まりつつあった。 きっと腹黒くてゆがんだ笑顔を浮かべた、頭の可笑しい殺人鬼まがいの奴にちがいないと勝手なイメージまで付加する。 「ん? いや、待て。なんでジェンの相棒とお前が仕事してるんだ?」 「仕事って言うとちょっと語弊があるかも。どっちかっていうと遊びに行ってるって感じね。なんか趣味が合うのよ二人とは」 「……そうだね……。この前は俺、置いていかれたけど……」 「だって誘いに行ったら、ラックさん買い出しでいなかったじゃない」 「……そうだけど……」 どうやら拗ねているらしくむくれるラック。 そんな彼らはアルトから見て共通点が全く見当たらないように思えた。 アルトの知っているラックは見ての通り口下手で、優しくて、ちょっとぼーっとした、実の兄よりよっぽど頼れる兄のような存在だったのだ。 戦闘狂で、何をしでかすかわからないソフィアとあまり結びつかない。 共通点を探して思い浮かぶのはどちらも、表情筋がほぼほぼ動いていないことくらいだろうか。 「それにしてもアルトとラックさんが知り合いだったなんて。世間って狭いわよね」 ソフィアが言った。アルトは訂正をする。 「私、というより、私の兄貴とラックさんが仲が良いんだ。私はおまけ」 「……というか……むしろ……ソフィアちゃんの世間が……広すぎ……」 ラックのつぶやきのようなツッコミにアルトは首を傾げた。 「……? どういうことですか?」 「……そのうちわかるよ。……はい、店についた」 ラックの言葉ではっとする。話している間にいつのまにか目的地についていた。

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