第一話 第三章 「その格好も十分理由になるし、それに……」
アルトから動いた。
傘はもう一撃受けたら使い物にならないだろう。
傘ではなく拳を突き出す。オッドアイの少女はそれを軽々とかわすと、こぶしは本棚にぶつかった。
アルトの渾身のパンチの衝撃で板切れになりながら、本棚だったものはオッドアイの少女の後ろに位置する竜巻に吸い込まれていく。
丈夫な本棚が一撃で粉々になった。
その桁外れの怪力を初めて見た大抵の者はひるむ。
彼女はそれが分かっていて、先手を仕掛けたのだった。
少し距離を取ってにらみ合う。左右非対称の目玉がかすかに細められた。
口角も微妙に上がっている。
すこし笑っているのだ。
ぞっとした。
人に斬りかかって笑っている。
少女はひるむどころか、好戦的に剣を薙ぎ払ってきた。
アルトは攻撃には使わなかった傘で防ぐ。
意外な攻撃だった。
細身のその剣はレイピアだと思っていたのだ。
まさか突く以外の行動をしてくるとは。
傘に両手を添える。
傘の柄はもう半分以上斬れかかっていた。
両手がふさがってしまっているアルトは相手の腹を蹴ろうとした。
だが彼女は回転してそれを避けたばかりか、その勢いを利用して回し蹴りを繰り出してきた。
ガードのできないアルトはもろにそれを受けてしまった。
重くはないが、鋭い攻撃。
続けてもう一発食らい、アルトは思わず床に倒れた。
慌てて身を起こそうとすると、そこには銃口。
ここまでか。
相手を睨みつけると、そのオッドアイの少女は彼女の目を覗き込んだ。
そして、黒い手袋をはめた手を彼女の前で振った。
その行動の意味が分からなかったアルトはキョトンとしたが、すぐにはっとなって怒鳴りつけた。
「おちょくってんのか! さっさと……」
「……あら、貴女、もしかして、人間……?」
ものすごく失礼な質問が投げかけられた。
アルトの中でなにかがプツリと切れる。
俗に堪忍袋の緒というやつだ。
女じゃない、とは言われたことがある彼女も、さすがに人間かどうかを疑われたのは初めてだった。
「人間だよ! なんだよそれ! 何に見えるんだよ!」
「俺、てっきり……ごめんなさい」
高く、凛とした声で自分のことを俺と言う彼女に、少々ちぐはぐな印象を抱いた。
目の色も、
話し方も、
その小柄で女性らしい体を包んでいる不格好な軍服にも。
彼女の何もかもがアンバランスだった。
オッドアイの少女は銃を下ろし、手を差し出した。
アルトは不満そうに睨みつけながらもその手を握って起き上がった。
剣も蹴りも銃弾も飛んでは来なかった。
どうやら敵ではないと認識されたらしい。
それでもアルトは警戒を解かないまま、問いかけた。
「一体なんで魔法を使おうとしてたんだ?」
「魔法?」
オッドアイの少女は首をかしげる。
「俺、戦いで魔法なんて使わなかったけど」
その答えにアルトは少しだけショックを受けた。
改めて負けたことを実感する。
学校であった戦闘実技では負けたことなどそうそうなかった。
特に苦手な魔法を使わない戦闘では。
それなのに、自分より小柄な女の子にあっさり負けてしまったのだ。
魔法抜きで。
ここ数年、戦ったことなど一度もなかったからだ。
腕が鈍っていたんだ。
と、心の中で誰に言うわけでもない言い訳をする。
「戦闘中じゃなくてその前」
「……俺、ここにきて一回も魔力を開放なんてしてないわ」
「嘘言うな。それじゃあ、あれは一体……」
チラリと見たが、竜巻はいつのまにかおさまっていた。
たしかについさっきまで、鳥の群れのように本がぐるぐる回っていたというのに、それは跡形もなくなっていた。
かわりに乱暴に床にたたきつけられた本と本棚が無造作に散らばっていた。
掃除が大変そうだ。
「……一体、なんだったんだ。あの風、魔法でも使わなきゃ起きないだろ」
「気のせいなんじゃないかしら?」
すました顔でしらばっくれたオッドアイの少女。
彼女が竜巻の中心にいるところを見なかったなら、信じていたかもしれない。
彼女はそれくらい動揺も、取り乱しもしていなかった。
見事なポーカーフェイスだ。
戦っているときは笑っているように見えたが、今はほとんど表情を動かさない。
笑顔に見えたのは気のせいだったのかもしれない。
「じゃあ本だけじゃなく本棚が転がってる理由を話してもらおうか」
「……それは……」
口ごもるその態度は、なにかをごまかそうとしているようにも、どう説明しようか迷っているようにも見えた。
口を挟まず彼女の次の言葉を待っていると、彼女たちの横を赤いものが通り過ぎた。
二人は思わず無言でそれを目で追う。
まるで自分の庭であるかのようにごく自然に通り過ぎて行ったそれは、
「……リンゴ?」
「リンゴ、だな」
真っ赤なリンゴだった。
ぴょこぴょこと飛び跳ねていたところをみると、食べ物ではなくモンスターの方のリンゴだろう。
真っ赤な見た目に騙されて食べるとしぶいため、食用にされることはまずないが、見た目の可愛さからよくペットにされている。
比較的弱くおとなしいが、そのあと二回、進化と称して少し姿が変化し、急に凶暴になってしまう。
そうなるとすぐに捨てられてしまう少し可哀想なモンスターの一種だ。
アルトは今朝見た新聞の記事を思い出した。
その中に『ペットとして飼われていたモンスターの脱走』があった。
そのペットというのがあれなのだろう。
「もしかして、暴れてたのって……」
「違うわ、あれは無関係」
「わっちとしてはアレを狩る方が楽なんだがなあ……」
「えー、でもあれリンゴじゃない。
せめてゴリンゴ……ううん、やっぱりゴリリンゴになるまで待たないと、狩る意味がないわ」
何の前触れもなく違う声が乱入してきた。
それは、今朝図書館に来る前に二度も聞いたあの声だった。
「やっほーソフィア。こっちにはいなかったよ」
振り返ると、アルトのすぐ後ろにはあのお面の人物と羽の少女がいた。
「ゴリリンゴのリンゴ酒最近飲んでないんだよねー」
リンゴはどんどん強く、凶暴になっていくのと比例するように、おいしくなっていく。
とくに最終進化のゴリリンゴでつくったリンゴ酒は絶品らしい。
隣にいるアルトを指さすと、羽の少女は首をかしげながら「誰これ?」と聞いた。
ソフィアは「さあ?」と言って肩をすくめる。
「あっ、お前!」
お面の人物がアルトを指さし、声を上げる。
さすがに街中であれだけ険悪な雰囲気を漂わせ合った仲だ。
初対面でもばっちり顔を覚えられたらしい。
アルトは顔をしかめた。
今朝のバトルを知らないオッドアイの少女と羽の少女は、キョトンとした顔で彼女たちの顔を交互に見た。
「ジェンの知り合い?」
「あー……いや、知り合いってわけじゃ……」
面倒くさそうに答えるジェン。
今朝の出来事を説明するつもりはないらしい。
もっとも喧嘩の理由を熱弁したところで、呆れられるだけだろうが。
本人たちにとっては大事なことでも、他人から見れば些細な事なんていうのはよくあることだ。
ソフィアは宙で剣を振り払うと、鞘に納めた。
まるで返り血がついているかのようなしぐさだった。
しかし、アルトは剣に触れてすらいない。
戦闘中に閃いていた剣は銀色に輝き、汚れどころか曇りさえなかったというのに、彼女はごく自然な慣れた様子でその動作を行った。
キン、と金属のぶつかる音が小さく鳴った。
「ちょっと悪魔と間違えて斬りかかっちゃったの。危うく殺しちゃうところだったわ」
「人違いかよ! つうかやっぱあれ本気で殺しにかかってたのか!」
今更ながらアルトは顔を青くした。
もし人違いだと気づかなかったら、今頃彼女の頭は半分くらい吹っ飛ばされていたことだろう。
「おいおい、勘弁してくれよ……」
その場にいたわけでも、本人というわけでもないのに、アルトと同じく顔を青くする白いマスクのジェン。
アルトはその顔をしげしげと覗き込んだ。
「……なんだよ」
「いや、お前、なんで青ざめてるんだ?」
「別にいいだろ。お前には関係ねえよ」
「いや、青ざめるのはいいんだが、なんでそれがわかるんだ」
そう、その白いマスクの人物は顔全部を隠しているはずなのだ。
顔色どころか表情すらわからないはずなのに、なぜか青ざめていることが一目でわかったのだった。
白いから色の変化が顕著だ。
絶対に見間違いなんかではない。
「おもしろいよねー、赤くなったらマスクも赤くなるんだよー」
「どんなマスクだよ……」
「しかも二枚重ねらしいわ。寝るときも外さないし」
「まじかよ。ってかよく見たら眉の動きまで見える……どうなってんだこれ」
次々と飛び込んでくる信じられない情報を聞きながら、アルトはジェンのお面をペタペタと触った。
顔色が反映されるほどの薄さではない。
ジェンは鬱陶しそうに手を払うと、胸を張って何故か威張った。
「マスクは顔の一部だ」
「うそつけ!」
「ちなみにミィレのリボンも体の一部だから動く」
ジェンは金髪の少女のツインテールを結っている白と黒のリボンを指でつまみながら言った。
それをみたミィレは笑って、ソフィアのほっぺたをつついた。
「それにソフィアの顔は取り外し可能なんだよ。取った後で、笑ったのとか、怒った顔に付け替えるの」
「まじかよ!?」
それならば、先ほどからほぼ表情筋が微動だにしていないのにも、それなのに戦闘中に笑ったように見えたのにも説明がつく。
つまり、他の二人のことも信じられないが、本当なのではないか。
半信半疑だったアルトも、すっかり信じてしまいかけた。
「なんなんだお前らこそ人間じゃないんじゃないか!?」
「ま、嘘だけど」
「嘘かよ!」
衝撃的な出来事が続き過ぎて、判断能力が麻痺してきたらしい。
見え見えの嘘に予想以上に簡単にひっかかったアルトをゲラゲラと笑うジェンとミィレ。
ソフィアでさえ少々端が上を向いた口元を押さえている。
もちろん顔を付け替えてはいない。
「お前らなあ!」
顔を真っ赤にして怒鳴りかけて、アルトはあわててかぶりを振った。
完全に相手のペースに飲まれている。
わざとらしく咳払いをして、一呼吸置いた。
「そうじゃなくて、お前らは何者なんだよ。目的は?」
三人は顔を見合わせた。
アルトは思わず生唾を飲み込んだ。
先ほどまで騒がしかった彼女たちが一斉に黙ったのだ。
ようやく訪れた一瞬の静寂によって、外の野次馬の声が微かに聞こえてきた。
おそらく、騒ぎを餌に新聞記者なんかも来ているのだろう。
やがて代表してソフィアが口を開いた。
それにアルトは一瞬安堵する。
いきなり人に剣や銃口を向けてくる彼女だが、やりとりを見た限り彼女が一番冗談を言いはしないだろう。
少なくともこの中じゃ、彼女は一番まともに見えた。
「どうしても聞きたい?」
アルトがうなずくと、ソフィアは頭突きをせんばかりの勢いで顔を寄せてきた。
無表情な彼女に迫られると、凄まれたわけでもないのに迫力がある。
カルとは大違いだ。
なんて考えていると、念を押すように、返事を急かすようにソフィアはもう一度聞いた。
「どうしても?」
おそるおそるコクリとうなずくと、ソフィアの後ろからジェンが指で輪っかを作って条件を提示してきた。
「金は前払いな」
「金とんのかよ!」
思わず声を荒げると、ミィレは腰に手を立ててため息をついた。
まるで、そんなことも知らないの?と言いたげに。
「あったりまえでしょ、わたしを誰だと思ってんの」
「いやだからそれを聞いているんだが……」
「ていうか貴女は誰なのよ」
完全に遊ばれている。
立て直そうとしたそばから、ガラガラと崩される調子をどうにか持ち直そうとするが、どうもうまくいかない。
確かに名乗りもせず、喧嘩を売っているアルトの方こそ、不審者と言われても仕方がない。
それに、押してダメなら引いてみろと言う。
アルトは素直に自分から名乗ってみることにした。
「私はアルト。ここの司書をやってんだ」
「あら、ここの人だったの」
ソフィアが意外そうな声を上げた。
先ほどの戦闘のせいで、アルトは傭兵か何かだという先入観があったに違いない。
アルトはそれに気づかないふりをした。
そういう勘違いをされたのは一度だけじゃない。
むしろ彼女の力を見たら、誰もただの司書をしているとは思わない。
「出勤して来たらこの騒ぎで、怪しい奴らがこの中に入っていくのを見たから追いかけてきた」
「あやしいやつら?」
首をかしげるソフィアに、アルトは親指でジェンとミィレを示した。
「こいつらのことだ」
「あら、失礼しちゃうわー。こんなかわいい美少女つかまえて怪しいだなんて」
ミィレは口を尖らせた。
美少女と不審者は関係がない。
ねえ、と同意を求めると、ジェンはうなずいた。
「ほんとだよ、こんな怪しくないやつはいないってのにな」
「てめえがいうな白マスク! てめえが一番怪しいんだよ」
「お前、犬好きに悪い奴はいないって言葉知らねえのか」
「知らん! あと猫の方がかわいいしな!」
とりあえずヒトコトは言い返さないと気が済まないらしい。
下手をすればそのまま喧嘩で脱線しそうな余計な一言を投げ返してから、アルトは聞きたいことをもう一度繰り返してみた。
「で、お前たちは?」
「わたし、ミィレ! 気軽に大魔王って呼んでね!」
金をとるだの言っていた割にはあっさりと名前を教えてくれた。
なぜ大魔王なのかとアルトが聞くと、
大魔王だから!
という訳の分からない答えが返ってきた。
明るくてフレンドリーだが、何をしでかすかわからない雰囲気がある。
忠告のこともあり、一番注意すべき人物かもしれない。
「俺はソフィア。さっきはごめんなさいね」
申し訳なさそうに少々眉尻を下げる。
この中では一番まともそうだが、何をしでかすかわからない。
いきなり斬りかかってきたのだ、注意が必要だろう。
「そっちはジェンね」
名乗る気がないらしく、そっぽを向いているジェンに代わってミィレが教えてくれた。
アルトとしては顔も見えず、意見の合わない、ジェンが一番何をしでかすかわからず、注意が必要そうに見えた。
総評として、目の前の三人はアルトにとって"何をしでかすかわからないから、注意が必要"という結果になった。
「全員女の子の冒険者パーテイーなんだ! よろしくねー!」
ジェンは女だったのかという発言は飲み込んだ。
下手に発言した言葉がそっくりそのまま返ってくることが予想できたからだ。
彼女自身、何もしていないのになぜか男に間違えられることがしばしばある。
髪を伸ばしているのは、その誤解をなるべくなくそうとしているからだった。
下手をすると同性から告白されることもしばしばだった髪が短かった学生の頃と比べると、少しはマシになったかもしれない。
悲しい思い出にすこし切なくなりながら、アルトは話を先に進めた。
「なにをしていたんだ」
「怪しいかもしれないけど、暴れていたのは俺たちじゃないわ。むしろ俺はそれを止めようとしていたの。
貴女に斬りかかったのもその元凶と間違えたからなのよ」
元凶のことをそれ、と表現している。
その元凶は人間ではないということなのだろう。
そして、アルトはその人間ではない何かと間違えられたのだ。
反射的に怒りを口にしようとした。
「お前な……」
「まだ近くにいると思うわ。貴女は避難して」
怒りが声になるよりもソフィアが警告する方が早かった。
「ふざけんな、職員がここに不審者だけおいていくなんてことするわけねえだろ」
「えー、まだなにもしてないのにー。理不尽だなあ」
「殺されかけたなら十分な理由だろうが」
「それソフィアだけじゃね? わっちとミィレとばっちりじゃねーか」
「その格好も十分理由になるし、それに……」
図書館に入る前にされた忠告を口にしようとして、やめた。
図書館の常連にされた忠告だ。
彼女とミィレにいったい何があったかなんてわからないのだ。
無意味に口にするのは軽率だろう。ミィレはキョトンとした顔をする。
「それに、なによぉ、気になるじゃない」
「……別に。それで、つまり、あの竜巻はお前らのせいじゃないと?」
「……まあ、正確にいえば全く俺らのせいじゃないとは言えないんだけど」
「じれったいな、簡潔にいうと、一体なにがどうしたんだよ!」
問い詰めると、ミィレが何の脈絡もない質問を返した。
「赤い背表紙の本を見てない?」
「はァ?」
煙に巻こうとしているのだとアルトは直感した。
ところが、ミィレは真剣な顔でそれを否定した。
「原因に関係あることよ」
「……赤い背表紙って…そんな本山ほどあるっつの」
今いる場所からざっと見ても、どの棚にもところどころに赤い本は存在する。
それだけの情報じゃどれのことだか全く見当もつかない。
ため息をついたその時。
なにかがスコンと小気味良い音を立ててアルトの額にぶつかってきた。
衝撃が頭蓋骨と脳を全力疾走して、後頭部から抜けて行った。
そのおかげか痛みもあまりなかった。
その代わりに怒りがこみあげてくる。
頭だけ上を向いたアルトは、まるでさび付いたロボットからのようにギギギとゆっくり顔の位置を戻した。
「てめえ……物を投げなくてもいいだろ」
気づくと、三人は戦闘態勢に入っていた。
しかもどういうわけか、アルトと対峙する形になっている。
アルトははっとした。
しまった、油断した。
とりあえず傘を構えるが、その傘はとうとう柄から折れてしまった。
仕方なく傘は諦め投げ捨てると、素手で戦う構えをする。
原因はわからないが妙な感じを覚える。
「何なんだよ! いきなり!」
ソフィア一人相手に勝てなかったのだ。
勝算は無い。
相手から目をそらすわけにはいかない。
意識は彼女達に向けたまま、アルトは記憶の中で図書館の見取り図を呼び起こし、逃げ道を探した。
いくら逃げ足が遅かったとしても、三対一で戦うよりは生存率が高いはずだ。
ミィレが腕をかすかに持ち上げた。
その動きにアルトは過剰に反応する。
「アルト、残念なんだけど」
ゆっくりと口を動かすミィレに目を向け、やっとアルトは妙な感じの正体を見つけた。
彼女は、いや、彼女たちはアルトの方を見ていなかったのだ。
視線は、もっと上。
アルトははっとなって頭上を見上げる。
「相手が違うわ」
そこには一冊の本が浮いていた。
「な、なんだよこれ!?」
「わっちらの探し物だよ」
確かに赤い背表紙だ。
だが、飛ぶとは聞いていない。
不気味な本だった。
静かにそこに浮かんでいるだけなのに、なぜか、その本が生きているという錯覚を抱いてしまう。
だが、本の形のモンスターなんて聞いたことない。
可能性があるとしたらただ一つ。
「まさか、禁書……! 噂、本当だったのかよ」
禁書。
アルトが迷惑をかけられていたデマは、デマではなかったらしい。
本は獣のような声で鳴き、そして開いたページから黒い影のような、帯のようなものが何本も飛び出してきて、アルト達を襲った。
ソフィアはそれを切り、
ミィレはするりと逃げ、
ジェンは弓矢でそれを器用に撃った。
影のような見た目だが、実態はあるらしく、攻撃を受けたそれははじける。
だが、アルトだけは反応が遅れ、体に巻き付かれてしまった。
「もー、これだから……。わたし助けるの嫌だからねー」
「わっちもパス。めんどくせ」
助けを求められる前から断るジェンとミィレ。
だが、ソフィアが首を振った。
「多分、必要ないと思うわ」
ジェンとミィレがえ、と首を傾げたその時、その紐をアルトは自ら引きちぎった。
本はまた獣の声でぎゃあという悲痛な叫びをあげる。
ジェンが口笛を吹く。
ミィレもパチパチと拍手した。
おそらくソフィアはアルトと戦ったときに、彼女が弱くないということを確信していたのだろう。
したり顔で「やっぱりね」と小さくつぶやいた。
本は誰も捕らえられないと分かったのか、本棚の森に逃げ出した。
ジェンが背表紙を向ける本に、二、三本の矢を放つ。
だが、届く前にどこかへ飛んで行ってしまった。舌打ちをする。
「また逃げられた」
「追いましょう」
「ここはミィレちゃんの出番だね!」
そういってミィレはその背中の羽を広げると、あっという間に飛び立った。
天井すれすれまで上昇すると、キョロキョロとあたりを見回し、「あっち!」と指さしてその方向へ飛んだ。
瞬きをした間に指で隠れるくらい小さくなっている。
彼女が姿を見られないうちに宿屋に家賃を払った方法が分かった気がした。
気づくと、ジェンとソフィアはミィレを追っていた。
慌ててアルトもそれに続く。
見上げながらとにかく彼女を追っていたら、「あっ、ゴリンゴ!」と言っていきなり階段を急降下した。
ミィレを追って一階に降りたところで爆発音が聞こえた。
外からだ。
アルトは慌てて窓に張り付いて外の様子を伺った。
近くの建物から煙が上がっている。
市場の大通りからだ。
外にいた人だかりはいつのまにか大通りへとはけていっていた。
おそらく救助や鎮火のための手伝いに行ったのだろう。
そう遠くないところに人だかりが見えた。
顔を窓からはなすと、誰もいなかった。
どうやら置いて行かれたらしい。
辛うじて本棚の上にミィレの金髪が見えたため、その下へと急ぐ。
たどり着いた閲覧スペースには、牙だらけの口とたくましい足の生えたリンゴがいた。
ゴリンゴだ。
おそらく先ほどのリンゴがいつの間にか進化したのだろう。
モンスターより癖の強い三人のおかげで存在を完全に忘れていた。
モンスターのそばに、ソフィアがいるのを見つけた。
「追いついた……ん? あれは……」
そしてその近くにいたのは、見た目の怪しさが半端ない性別不明の謎のお面だ。
倒れていた。
頭には矢が刺さっている。
アルトは息を飲み込み、慌てて近づいた。
矢羽は右側にあり、頭をはさんで矢じりは左側にある。
ゴリンゴと戦っていて刺さったのだろうか。
犠牲者が出てしまった。
アルトはせめてもう傷つかないようにと別の場所に移すべく、抱き起そうとしたその時。
「お前のせいだー!」
死んでると思った相手に至近距離から怒鳴られ、アルトは情けなく、およそ女性とは思えない「ぎゃあ」という悲鳴をあげた。
おもわず起き上がらせたお面の付いた頭を放り投げる。
ゴン、と鈍い音がして、そのお面は頭を押さえて悶えた。
「……っにすんだよ……ほんとに死んじまうじゃねーか!」
その衝撃で頭から矢がとれている。
矢がついたカチューシャだった。
子どもだましのイタズラグッズだ。
アルトはまだバクバクする心臓を抑えた。
「ふ、ふざけてんじゃねーよ! なんなんだよこんなときに!」
「わっちは人見知りだからこんなボケしかできねえんだよ」
「ボケんなよ! そもそも!」
ソフィアが突然まっすぐ指をさす。
「あ、ゴリンゴがゴリリンゴになりそうよ」
「は?」
個体差はあるが、数時間もたたないうちに成長するはずがない。
なにをいっているのだと、少女の指さす方を見ると、たしかにそこにはマッチョがいた。
「な、な、ありえな……なんで……」
ボディービルダ―も真っ青な立派な筋肉が立ちはだかる。
大きさが違うだけで、体は人間のものと変わりないが、見上げると頭の部分は林檎の形をしていた。
呆然とするアルトの隣で、ジェンとソフィアは冷静になにかに納得していた。
「ミィレか」
「ええ、ミィレね」
慌てているのはアルトだけだった。