ルカは同じ分隊に所属しているエリーナのことが好きでした。
明確にいつから、というのはわかりません。
最初は可愛い眼鏡だな、と眼鏡のことしか見ていませんでしたが、それが次第に眼鏡の似合う子だな、くらいに思い始め、最近は眼鏡以外にもときめている気がします。
エリーナの眼鏡に見とれていると、ふとした時にその奥の赤っぽいピンク色の瞳と目が合ったりして、どきりとしてしまう自分がいました。今では彼女とちょっとおしゃべりするだけで、少し緊張してしまうのです。
「あれ、エリーナちゃんいないね。リュメルが教官と組んでる」
リクトがそう呟いたのは、近接戦闘訓練の時間でした。
「あ、ほんとだ」
ルカはまるで今気が付いたかのように反応しましたが、実はもっと前からそのことに気付いていました。
でも、消えたタイミングはわかりません。いつから彼女はいないのでしょう。
今朝の点呼の時には確かにいました。
朝礼の時はどうだったでしょう。わかりません。
朝食は班ごとにまとまって空いたテーブルに着くので、座る位置は毎日違うのです。今朝に限って、ルカ達と二班は離れたところに座っていました。
とりあえずエリーナはどこかへ行ってしまったのは、点呼の後から、朝礼にかけての間のようです。
ルカは胸がざわざわしました。
最近の彼女の様子と、今朝の朝礼の内容を思い出したからです。いや、そんなまさか。と自分自身の中で冗談めかそうとしますが、不安は広がる一方でした。
「どうしたんだろうね? あとで二班の誰かに聞いてみようか」
「……別に、そこまでじゃないだろ」
無関心を装っていますが、内心ではかなり心配しています。
その恋心は認めるのは照れ臭く、人前では否定してしまうまだまだ青いものなのです。眼鏡好きを否定するのと同じで、好きなものは隠したがる年頃なのでしょう。
彼がもう少し大人になればそれを堂々と肯定できるかもしれません。ですが、彼はまだ思春期の男の子なのです。
「えー、ルカ気にならないの?」
「べっつに」
もちろん、彼の気持ちはエリーナ本人以外にはバレバレです。
素直じゃない返答するルカに、リクトはやれやれと、ため息をつきます。
結局、彼女は午前中の訓練にまったく出席しないまま、昼食の時間になってしまいました。
本日の昼食のメニューはご飯とからあげ、お豆腐にお漬物、それにみそ汁とサラダです。配膳を受け取ると、アベルはヒュゥと、口笛を鳴らしました。
「やりぃ、今日は唐揚げだ。おなかいっぱいのやつがいたら、四八一分隊第一班のアベル二士までどうぞ! 一つ残らず食ってやるぜ!」
昼食のメニューが好物だということにテンション上がり、大声で他の分隊の訓練兵にまで宣伝し始めます。お盆をテーブルにおいてもなお、椅子に座ろうとしません。
ルカはそんなアベルの手を引いて座らせようと促しました。
「恥ずかしい宣伝してんなよ。ほら、さっさと座れ」
ですが、彼は座る様子はなく、青い瞳をキラキラさせながら他のメンバーの皿を見つめます。正確には人の唐揚げをしっかり視線でとらえています。
「お前らも、無理せずに俺にくれていいんだぜ?」
「誰がやるかバーカ」
「ごめんね、アベル。これをあげたら、午後の授業、お腹鳴っちゃうから……」
「オレもお腹すいてるから、今日はあげないよ」
誰もくれる気がないことが分かると、アベルはあきらめて椅子にどかりと座りました。
「チェッ、なんでこの班には、小食な奴も女もいねーんだよ」
二班には小食なリノが、三班には女性隊員のエリーナがいます。対して彼ら一班。ルカとリクトはたまに苦労することもありますが、年相応の胃袋は持ち合わせていますので、大抵は食べきります。
ハルは体の大きさから使うエネルギーが多いですし、そもそも残すのは彼のポリシーに反するようでご飯粒の一粒さえ綺麗にたいらげます。
アベルは言わずもがな。
この班のメンバーはよっぽど嫌いな食材が出るか、量が異常でない限りは、全て自分の栄養にしてしまうのです。それがアベルにとっては不満なようでした。
結局アベルは配膳されてから一個も唐揚げが増えることはなく、食事を終えました。
「からあげー……もっと食いたかった……」
「どんまい、アベル。あとで売店でお菓子買お?」
食堂を出てからも、腹を満たせていないと恨めし気に訴えるアベルを、ハルが慰めます。
そんなにお腹いっぱい食べて、逆に午後の訓練に支障がないのかとルカとリクトは苦笑しながらそれを眺めました。
「この様子じゃ、オレたちの中にはスパイなんていないよね」
リクトがポツリと漏らすと、三人共黙ってしまいました。でもすぐに、ぱっと笑顔になってうなずきます。
「大丈夫だよ。いるわけないよ」
「そーそー。いねえいねえ」
「当たり前だろ。いるわけねえって」
お気楽を装ったその言葉に、リクトも「そうだよね」と相槌を打ちます。
もう何度のこの問答が行われたでしょうか。聞く人によってはわざとらしく聞こえるでしょう。でもきっと彼らは、そんな白々しい台詞を言うことで、また、言ってもらうことで安心したかったのです。
何日も前にエルガー二尉が初めてスパイのことを公言した時も、似たような会話が繰り広げられました。
”自分たちの中にスパイなんているわけない”。
あの時は、話のネタ、怪談とは少し違うスリリングな話題として考えていました。
ですが、さっきのはそれと似て非なるものです。
今回は、言い知れない不安に駆られて根拠のない同意を求め、安心したいがためのものでした。
その不安の種は、本日の朝礼でばら撒かれたものです。
今朝はエルガー二尉はおらず、朝の体操から始まりました。
彼は本部へ出ていることが多く、むしろ朝から演説をすることが珍しいのです。
体操が終わり、ローイ三曹が事務連絡のために壇上へ上がりました。
『最近は暑い日が続きますので、水分補給はきっちりとるように。また、本日から、お客人が見えます。粗相のないようお願いします。……それから、』
そこでローイ三曹は言葉を切りました。そして訓練兵たちをすっと見回します。
いつも淡々と口だけを動かすローイ三曹のその動きを不審に思った訓練兵たちは訝し気に彼を見つめ返します。
ローイ三曹は短く息を吸うと、いつも通りのトーンで言い放ちました。
『――それから、昨日スパイを二人確保しました』
訓練兵達は一瞬言葉の意味を飲み込めずぽかんとしました。
やがてポツポツと声が漏れ始め、一気に動揺が広がります。
エルガー二尉の発言以来、スパイのことなどなかったかのように音沙汰はなかったのです。経過報告も、匂わせることもなしの突然の確保。
本当に自分たちの中にスパイがいたのだという驚きと、衝撃と、悲しみが爆発的に連鎖していきます。
中にはただただうつむいてやるせない顔をしている者もいます。彼らの分隊に所属していた兵士がスパイだったのでしょうか。隣で共に訓練をしていた仲間がスパイだったのでしょうか。
演説台の下に立っていたジゼル伍長が、騒然とする訓練兵たちに「私語をやめろ」と一喝します。
いつもはそれでピタリと収まるはずのざわめきが、それでもなお薄く残りましたそれに対しジゼル伍長がもう一声上げて、やっと静かになります。
ローイ三曹は不安そうな訓練兵をもう一度見まわしてから続けました。
『残りのスパイも速やかに確保します。皆さんはいつも通りの行動を心掛けるように。これより朝食。その後〇七三〇(マルナナサンマル)より、通常通り訓練を行う。全員、時間厳守を肝に銘じてください。以上、解散』
いつもの文句で締めくくると、ローイ三曹は壇上を降りていきました。
それが、朝礼の内容でした。
思い出したルカ達が少ししゅんとしたのを察して、リクトは慌てて話題を変えます。
「それよりさ。昼休み、どうする?」
辛気臭い雰囲気はさっさと払拭しないと、後を引くと思ったのでしょう。
例えそれが現実逃避の下位互換のようなものでも、今の彼らには正解に思え、安易に乗っかりました。
「どうする? 久々にバスケなんてどーよ! 二on二!」
「いいねー、今から行けば間に合うんじゃない?」
「そうだな、最近してなかったし」
昼食をとったあとは、一時間の昼休みがあります。
訓練だけではなく、起床、就寝、食事、風呂の時間まで分刻みで縛られている彼らにとって、好きなことができる貴重な時間です。
すべて班単位での行動が基本となる生活の中で、貴重な個人行動が許される時間でもありますが、彼らは大抵一緒に遊んだり勉強したりしていました。そこまで一緒の生活をしていると、ずっと一緒にいるのが疑問ではなくなってくるのです。
大げさにその関係を呼ぶならば、運命共同体。
褒められるときも、怒られるときも、罰を受けるときも大抵は班単位です。他の訓練兵たちも大体は同じように休み時間も、班行動をしていました。休日だって一緒に過ごす者たちも少なくはありません。
「今、チャーリーには誰もいないみたいだよ」
ハルが近くの窓から外を見てそう言ったことにより、本日の昼休みのプランは決まりました。
訓練施設の建物の周りには、小さな雑木林やフェンスなどに囲まれている四つのグラウンドがあります。
それぞれ訓練に合わせて障害物などが置いてあったり、池やぬかるみがあったりと特徴があり、便宜上グラウンド・アルファ、ブラボー、チャーリー、デルタとまるで人の名前にも聞こえる各名称がありました。
今ルカ達が向かっているグラウンド・チャーリーは、主に行進や団体行動訓練、遠征訓練の予行練習などに使われるため、一番広々としています。
その広い広いグラウドの隅には、ポツンとバスケットゴールが一つありました。
何世代か前の先輩兵士が、あれこれ手を回し、そんなものは必要ないと反対する教官達を見事説き伏せて取り付けたという伝説の代物です。
「じゃあ今日は、アベルと組む!」
リクトが真っ先に手を上げました。
彼らのチームの決め方はローテーションや規則性などなく、適当なものですが、とりあえず前回と同じにはしないということだけ決めています。
「じゃあ、僕はルカとだね」
「おう、頼んだぜ相棒」
ハルとルカは手の甲同士をぶつけ合います。
「じゃあいつも通り、俺とリクトがコート確保しとくから」
「合点承知の助! 俺とハルはボール取ってくるぜ!」
チーム決めはランダムですが、ルカとリクトが場所を確保し、アベルとハルはボールを取りに行くという役割分担は毎回同じでした。
日によっては使用希望者が殺到するそのバスケスペースは、基本的に早い者勝ちですが、使いたい者同士で争ってちょっとした小競り合いが勃発することもあります。
小競り合いと言っても殴り合いなどしようものなら、速攻で教官が飛んできて喧嘩両成敗として、関係した訓練兵はみんな仲良く罰を受けることになるでしょう。
なので、交渉や駆け引き、それぞれのメンバーのパワーバランスなどで勝負します。
アベルとハルは腕っぷしの喧嘩なら負けることはないでしょうが、交渉には向いていません。
アベルは馬鹿すぎますし、ハルは優しすぎて丸め込まれる可能性があるのです。
ですから、顔が広く口がうまいリクトと、言われたら倍で言い返すルカが担当なのです。
ルカとリクトがバスケットコートにつくと、そこはがらんとしていました。本日は運が良く、争う相手はいないようです。二人はボールを待つ間近くのベンチに腰掛けました。並んで、普段は必死こいて駆け回るグラウンドを二人でぼんやり眺めます。
施設内や他のグラウンドの音を拾ってきた風が二人の髪を揺らしました。
「……次はいつリベンジする?」
リクトがそう問うとルカは腕組みをして唸ります。
「そうだなあ、この前の作戦、もうちょい改良の余地ありそうだし……」
「今度はさ、ちょっとミスリードしてさ……」
バスケのチーム分けで、彼らが組むと、運動神経の良いアベルと身長が高いハルのコンビには敵いません。
ですが、それをどうにか負かそうと作戦を考えるのが楽しいらしく、彼らは定期的に作戦会議を開いていました。
教官の怒号も、訓練兵たちの軍歌もないグラウンド・チャーリーはいつにもまして広く見えました。
「なんか、静かだな」
「やっぱりみんな、遊んだりする心理状態じゃないのかな。あんな朝礼があったばかりだし」
「俺達は相当のんきってことだよな」
「そうだね。深く考えないようにしてるともいうけど」
不安を考えないようにそんな話をしているにもかかわらず、それでも頭のどこかでぼんやりと不安を掘り下げてしまいます。
今頃、他の訓練兵達はなにをして、何を語っているのでしょうか。
半年近くも共に過ごしてきた仲間に疑心暗鬼になり、お互いに疑いの目を向け合い、探り合っているのでしょうか。
それともルカ達のように問題から目をそらし、いつもどおりに装っているのでしょうか。
魔女裁判みたいなことになってしまったりしたら、今後支障は出ないのでしょうか。
そんな事をした仲間に信頼を置き、戦場で戦っていけるのでしょうか。
少なくともルカ達四八一分隊はそんな様子は見受けられませんでした。
ロレンソやオットマーが皆を気にかけていることもありますし、
シュメルツやルイス、ネスなど、周りの雰囲気に流されることがない者たちがいるのも要因の一つでしょう。
本来ならみんなのケアにはエリーナも加わっていたことでしょうが、彼女は未だにどこで何をしているいるかは分かりません。何事もなければいいのですが。
今、答えが出るとも思えない疑問ばかりが、もぐらたたきのようにぽこぽこ湧き出ます。叩いたはずのもぐらは、何食わぬ顔で何度も穴から顔を出します。
「……なあ、エリーナは、大丈夫だよな」
気が付けばルカはリクトにそう問いかけていました。
「え? エリーナちゃん? ……スパイのこと?」
察しの良いリクトが問い返すと、ルカはうなずきました。
「いやほら、今日は朝から姿が見えないからさ。ちょっと、心配になったりならなかったり……」
ルカは言いながら、先ほどの訓練の時にエリーナのことなど何も思っていないみたいな態度をとったことを思い出しました。今の発言と矛盾しています。
完全に口が滑ってしまった。その事に気が付いたいたルカは、ぶわっと顔が熱くなります。
その熱を口から吐き出すかのように、言い訳をまくしたてました。
「あ、えっとその、心配じゃない! 心配じゃないけどやっぱこう、同じ分隊だし、目につかないって言ったら嘘になるし、っていうか、俺としてはスパイなんてありえないと思うけど、万が一ってこともあるしお前の意見を聞きたいっていうか……なんつーか……悪い、もう忘れてくれ」
結局ゴニョゴニョとしりすぼみになっていくルカに、リクトはくすりと笑いました。
「エリーナちゃんはないでしょ」
「そ、そうだよな。あんな優しくて……」
「だってかわいいし!」
力強く言うリクトに、ルカはズルッとずっこけました。
「そこかよ!」
「いやいや、大切だって。スパイって目立たないのが理想でしょ? その点、我らがマドンナエリーナちゃんは才色兼備で、訓練兵で数少ない女の子ってことを差し引いても目立ちまくりじゃん。スパイには向いてないよ」
確かに、リクトの言うことも一理ある気もします。
若干、良いように言いくるめられた気もしなくはないですが、とりあえず大丈夫だといわれたことに満足したルカは気にしないことにしました。
「あ、そうだ。リクト。もう一ついいか? 話は全然違うんだけど」
「ん?」
「ちょっと頼みが」
「お金なら俺もないよ」
リクトが先手を打ちます。それはもう間髪を容れない見事なものでしたが、今日の彼のお願いはそうではありませんでした。
「ちっげえよ。便箋を何枚かもらいたいんだ。お前女が好きそうなの持ってるだろ」
「便箋? 女の子が好きそうな? かまわないけど……あー……へぇー?」
ニヤニヤし始めるリクト。
ルカはキョトンとしましたが、すぐに彼の考えを察し、慌てて否定します。
「あ、お前勘違いしてるな!?」
「ルカはもっと奥手だと思ってたけど……そっか、ついにねえ」
「ちっ、ちがう! そうじゃない!」
「じゃあ、なんのさ」
「そ、それはその……」
本当にリクトが考えているような意図は全くないのですが、ルカは思わず挙動不審になってしまいました。
完全に相手に呑まれています。
まったくやましいことはないのだからきっぱり否定しなければと自分をちょっと落ち着かせたところで、リクトはおもむろにルカの背後に向かって手を上げて声を掛けました。
「あ、エリーナちゃーん!」
またからかって自分の反応を面白がっているのだと直感したルカは、余裕を見せるために鼻で笑ってやりました。
何度も使われて騙された手なのです。
「それには乗らねえぞ、どうせエリーナはいない……」
「はーい、どうしたの?」
「エリーナ!?」
本当にエリーナがいました。
今日かけている銀縁の眼鏡からはみ出さんばかりに大きくして驚くルカ。
その大きくなった黒い瞳には完全にエリーナしか映っておらず、彼女に同伴者がいる事に気づいていません。
それを尻目にリクトは笑いながらエリーナに言います。
「ルカがさあ、ラブレター送るんだって」
「え、そうなの?」
「ラブレター!? その話詳しく聞かせて!」
驚くエリーナと、瞳を輝かせる同伴者。
「違うって!」と首を激しく降るルカの脇腹を、リクトが茶化すように肘でつつきました。
完全に面白がっています。
「またまたあ、照れちゃって」
「今回は本当に違う! いや、今回も前回も次回もないけど!」
慌過ぎて思ってもない事にもかかわらず口をまた滑らせそうになり、ルカは一呼吸おいて自分を落ち着かせました。
「……妹に送る手紙に使いたいんだよ」
やっとこさ本当のことを言えたルカ。
エリーナの同伴者は口をとがらせます。
「えーつまんなーい! ラブレターじゃないの?」
「だからそういってるだろ!」
「ま、知ってたけどね」
「お前……」
どや顔のリクトに絶句するルカ。
やはり慌てるのを面白がられていたようです。
その様子を見てくすくす笑うエリーナ。
やはりこうしているといつも通りに見えます。
座学教室の壁の穴をふさいでから数日が経ちました。
しばらくの間朝礼や座学の訓練の時間は、さすがの四八一分隊も、発覚を恐れてびくびくしていましたが、一向にばれる気配はありません。
それほどまでにアベルの修繕は見事なものだったのです。
アベル曰く、衝撃があればすぐに壊れるとのことでしたが、座学の教室ではそうそう衝撃を加えられることはないでしょう。
これならばれることはないだろうと、いつも通りの日常に戻りつつありました。
ただ一人、エリーナを除いて。
彼女もいつも通りに振る舞っていますが、ふとした時にその空元気が露呈してしまっています。当の本人はそれを隠そうとしているようなので、他の面々もそ知らぬふりをしています。ですが、どうもぎくしゃくしてしまい、それを避けるようにエリーナが距離を置きがちになっているという悪循環に入ってしまっていました。
壁の穴の発覚を恐れているわけではありません。それよりも、アベルとリュメルの喧嘩の際に起こった何かに心を憂いているようなのですが、ルカはその何かを知りません。
あの時何が起こって、穴が開いたのか、結局誰も教えてくれなかったのです。
相談さえしてくれれば一緒に悩んであげられるのに。自分が事情を知っていればなにかできることを思いつくかもしれないのに。
そうは思いつつも、エリーナに直接聞ける雰囲気ではなく、周りの面々も言葉を濁します。強く問い詰めれば人によっては聞き出せるかもしれませんが、逆に話がこじれる可能性もあります。
どうすることもできないので、今は様子見をすることにしていました。
それはルカらしくない戦法で、自分でもやきもきしていましたが、こと、エリーナが絡んだことになると途端に逃げ腰になってしまいます。
リクトはというと、なんとなくルカの考えていることを察知しながらも、特に何か助言するわけでも、サポートするわけでもなく、我が道を行っていました。
エリーナにむかって笑いかけます。
「ところで、その子は誰? 紹介してほしいな」
話の流れからして、手紙の相手のことを聞かれたのだと思ったルカは、「誰って、だから妹……」と言いかけましたが、リクトはすぐにその声を遮ります。
「ああ、ルカに聞いたんじゃなくって。彼女のことだよ」
そこでやっと、ルカはやっとエリーナの隣に知らない女の子が立っているのに気づきました。
「あ、うん。そうだね。こちらフウカちゃん」
「ヤッホー! はじめまして!」
青っぽい紫色の髪。年はルカ達と同じくらいでしょうか。手足がすらっとしていて顔立ちもはっきりとした美人です。
なんとなく見たことがある気がするようなしないような気がします。ですが、彼女のような訓練兵は見たことがありませんし、なにより軍服を着ていません。
「はじめまして。オレはリクト。……あれ、フウカちゃんってなんか見たことあるなぁ? どっかで会ったっけ?」
「マジ?」
「マジマジ」
二人はまるで前からの友達かのように親し気におしゃべりを始めました。
リクトはそのフランクな話し方や、容姿の良さ、果ては兵士というステータスも武器にして休みの日に街へ出かけてはナンパをして女の子のお友達を作っていました。
フウカとはフィジカル的に彼と似たものがあるらしく、今回は特に雰囲気構築がスムーズです。
「えー、どこでみたんだっけ」
どうやら、リクトは本当に彼女に見覚えがあるようです。会話の一端というだけではないらしく、リクトは真剣に記憶を探り始めました。フウカの方は心当たりがあるのか、「さて、どこでしょー」と笑います。
エリーナは会話にはあまり加わらず、時折、話を振られた時だけ返事をしていました。やはり距離を置いているように感じます。
ルカはというと、そんなエリーナに話しかけようかどうしようか迷い、リクトから話を振られてもほとんど上の空で返答しました。
もじもじして、ちらちらとエリーナをみたりしています。
しかし、何を話せばいいのか、どう切り出せばいいかわかりません。
そんなことを意識してしまうと、余計に自分の沈黙が不自然な気がして来て焦ってしまい、余計挙動不審になっています。
そこへタイミング良く、アベルとハルが帰ってきました。
「ただいまー……って、誰?」
アベルがボールを指先で回しながら、問いかけます。
結構不躾な聞き方にもかかわらず、フウカは笑顔で名乗りました。
「はじめまして! あたしフウカ!」
「えっと、はじめまして?」
「ウィッス。で、リクトは何考え込んでるんだ?」
「フウカを頑張って口説こうとしてるんだよ」
ハルとアベルが帰ってきたことで、ルカは調子を取り戻し、からかうように言いました。
その発言にリクトは口をとがらせます。
「いやほんとにフウカちゃんどっかで見たことあるんだって。……ちなみにフウカちゃんはここに何しに来たの? 軍の関係者じゃないよね?」
「んー、それ言ったらわかっちゃうかもなんだよなあ」
リクトはヒントを求めてフウカに質問を投げかけたり、冗談を言ったりしています。
和気あいあいとおしゃべりをするリクトを見て、アベルはにやりと笑いました。
「さすがリクト。手がはやい」
「だろ。あれは俺達の事紹介する気ないぞ」
「自分だけ印象に残す気だな」
「手本になるぜ」
アベルとルカがうんうん、とうなずきます。
羨望交じりの嫌味やヤジを飛ばす彼らに対し、ハルとエリーナは素直に彼をすごいなーと感心していました。
「リクトは誰とでもすぐ仲良くなるよね」
「うん、リクトくんすごいね」
「いや、エリーナ、ハル。騙されるな。あれはただのナンパだ」
「リクトが難破船でナンパしたら何パーセント成功するんだろうな」
「五点」
「えっ、五点満点で?」
「百点満点でに決まってんだろ馬鹿」
くだらない冗談も、この手の嫌味も、駄洒落も、合いの手みたいなものなので、リクトも気にしません。
目の前の美女を脳内検索に集中し、やがてひらめいたように声を上げました。
「あっ、わかった! フウカちゃんだ! モデルのフウカちゃん!」
その答えにフウカはぱっと笑顔になります。
ずっとにこにこしていましたが、それがさらに嬉しそうに花開いたのです。
「わ、あったりー! 女の子であたしのこと知ってる子は多いけど、男の子だと珍しいなー。うれしー」
「そう? 結構有名人じゃん。町でポスターとか見たことあるよ」
リクトはどんどん話を進めますが、他の男性陣はキョトンとした顔しています。
「知ってるか?」
「うーん、そういわれると何かで見たことある気が……ある……か……?」
流行りものやファッションなどに疎いルカとアベルは首をかしげます。
ルカも顔は見たことがあると思いつつ、それがいつだったのかどこだったのかは思い出せませんでした。実はフウカという名前にもあまりピンとは来ていません。
エリーナはその様子に少し驚きました。
「えーそうなの? 私の友達とかファン多いんだよ?」
やはり女性はそういうモノに敏感なのでしょう。
その隣でハルがあっ、と声を上げました。
「僕も知ってるかも」
意外な人物の意外な発言に、リクトまでもが驚いたように彼を見ました。
ハルも流行りものや有名人にあまり興味がありません。ですが、彼が知ったかぶりや嘘をつくことは滅多にどころか全くありえないので、思わずハルに詰め寄りました。
「え!?」
「嘘だろ!?」
「なんで!?」
ハルはそれに圧倒される様子もなく、さらりと質問に答えます。
「二番目の妹がね、ファンなんだ。たしかポスター持ってたと思うよ」
それを聞いてフウカはハルに目を向け、ぱっと笑顔になりました。
「それほんと? えー、超ウレシーんですけど!」
自分を知ってもらっているだけでもうれしいのに、さらに身近にファンがいるといわれたら喜ばないわけはありません。
「なるほどねえ。あ、ハル、後でサインとかもらったら?」
「え、いいかな……?」
リクトに言われ、伺うようにフウカを見下ろすハル。
「書く書く! 全然書く! あとで書いて渡すね!」
フウカは笑顔のままハルを見上げ、快く承諾してくれました。
エリーナが「よかったね、ハルくん」というと、ハルは嬉しそうに「うん」とうなずきます。
そこでルカもやっと思い出しました。彼女を見たことがあると感じたのは、妹が知っていたからです。
一瞬自分もハルに乗じてサインを頼もうかとも思いましたが、まあいいや、とめんどくさがりました。そもそも妹はミーハーなところがあるので、本当に好きかどうかも怪しいです。
予想外のことがありましたが、リクトは気を取り直してフウカに話しかけます。
「それじゃあ、フウカちゃんがここにいるのは撮影とかのため?」
「そーなの。軍に親しみを持ってもらうために、ポスター作ったり、ちょっとした体験記事を出すんだって。この施設で撮影なんだー。ちょっと、何日かお世話になりまーす。よろしくねっ!」
ぺこりと頭を下げるフウカ。
確かに、朝礼の連絡でお客さんが来る為、失礼のないようにという言葉をいただいていた気がします。ですが、この訓練施設にはたまにお偉いさんも視察に来るので、そう言う類の事言っているのだと思っていました。
他の訓練兵も同様の認識をしているでしょう。こんなに可愛らしいお客さんが来るとわかっていたなら、今日の共有洗面室はもっとごった返しています。
そんな混乱を避けて上官たちは詳しく話さなかったのかもしれませんが、ばれてパニックになるのも時間の問題でしょう。
「同じオンナノコ同士ってことで、とりあえず私が案内役に任命されたの」
エリーナが今朝から姿が見えなかったのは、そういうわけだったのです。
ルカは胸をなでおろしました。
「でも、こんな地味な建物のどこで撮るんだ?」
「地味かな? 結構楽しいよここ。学校と宿屋が合体したみたい!」
確かにある程度エリアを分けているとはいえ、居住区と訓練区はかなり近い場所にあります。
利便性を考えて更衣室の隣にランドリースペースやお風呂があったりしますし、射撃場や訓練場などは、一般の建物にはありえないものなので、外部の人にとっては少し新鮮かもしれません。
「そうだ! エリーナも一緒に撮ろうよ! 現役軍人さんとって絶対映える! エリーナかわいいし、雑誌にも全然載せられるって!」
フウカは甘えるようにエリーナの手を握りました。
エリーナはちょっと困ったような笑みを浮かべます。
「うーん、私はそういうのはちょっと……」
「えー! どうしてもダメ?」
「ごめんね」
口をとがらせるフウカですが、まだ諦めていないという顔をしています。
もしかしたら不意打ち気味にでも一枚くらい一緒に撮る魂胆なのかもしれません。
エリーナはそれを察してか、この話を早々に切り上げることにしました。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
「あ、そうだね。じゃあまたね! リクト達!」
「またねー」
リクトは手を振り返します。その後ろで、ルカとアベルがからかいます。
「見事にリクトの名前だけ覚えていったな」
「リクト”達”、だってよ俺達。実質リクトとその他大勢ってことだな」
「だって皆自己紹介してないじゃない。オレのせいにしないでよ」
ですが、やはりリクトにその手の言葉はノーダメージでした。さらりと反論します。二人も何も本気で妬んでいるわけではないので、それ以上からかうことはしませんでした。
「……あ、でも、ハルも覚えてもらったかもね。自分を知ってくれてたってのはポイント高いよー」
「そう? サイン、妹喜ぶなー」
アベルはダムダムと遊んでいたボールをリクトに投げました。
「ま、それより、さっさとやろうぜ!」
その言葉で四人はそれぞれ位置に着きます。
ルカは、こっそりエリーナの後ろ姿を名残惜し気に見送ります。
ポニーテールが二,三回揺れたところで、ハルのパスしたボールがルカの頭に直撃しました。
「あ、ごめんルカ。大丈夫?」
「なにやってんのさ」
「ぼーっとしてんじゃねーよ!」
ルカは「悪い悪い」と片手で謝りながら、気をとりなおしてボールを拾いました。
◇◆◇◆
エリーナはとっても、心の優しい女の子です。
ですから、自分のせいで周りに気を使わせてしまっていることにとても心を痛めていました。
ルカ達と別れると、エリーナはそっと息を吐きました。それは嘆きのため息でもあり、安堵のため息でもあります。
座学教室でのあの事件を忘れることができないのです。
周りはあの時のことに触れずに前と同じように接してくれますが、ふとした時にどうしても忘その時のことが脳内でリピート再生されます。その度に、表情が引きつり、申し訳なさや自己嫌悪や後悔でいっぱいいっぱいになってしまい、その場から逃げ出したくなってしまうのです。
「ねえ、聞いてる? どうしたの? エリーナ?」
フウカが顔を覗き込みました。
緑っぽい水色の大きな瞳に写った自分が目に入り、ハッとします。
「あ、ご、ごめんね。ちょっとぼーっとしてたよ」
このままというわけにはいかない。早く気持ちを切り替えなければ。
頭ではわかっているのですが、そう簡単にできるものではありません。
ぎこちなく笑うエリーナを疑問に思いつつも、フウカは深くは追及せずに話を続けます。
「んで、次はどこいくの?」
「え、えっとね。そうだなあ……」
施設内のマップを脳内で呼び出して、どこへ行くべきかを考えながら歩きます。
そのせいで、建物の影から人影が飛び出してきたことに気づくのが遅れてしまいました。直前でで気づいたエリーナは咄嗟に少し身を引きますが、それでも肩がぶつかりよろめきました。フウカにいたってはまったく反応できなかったようで、半ば吹っ飛ばされたようにしりもちをついてしまいました。
エリーナは慌ててフウカに駆け寄ります。
「だ、大丈夫? フウカちゃん」
「いったぁ、どこみてるのよー!」
フウカが文句を言いますが、ぶつかった人物は彼女たちを振り返ることもなく走り去ろうとしています。
ちらりと見たその顔を、エリーナは知っていました。同じ訓練兵小隊で、四八五分隊のローザン二士です。
親しいわけではありませんが、暴力的だったり、乱暴だったりするイメージはありません。むしろおとなしくて優しい控えめな訓練兵です。
そんな彼が振り向きも立ち止まりもしませんでした。よっぽど急いでいたのでしょうか。
「おーい! 謝るくらいしたらどうなんだ!」
遠目から一部始終を見ていたらしいルカ達が、ローザン二士に声を掛けるのが聞こえました。
エリーナはフウカに怪我がないかを調べます。
とりあえずは軽い擦り傷がある以外、外傷はなさそうでした。ほっとして、フウカに手を差し伸べます。
「医務室に行こう。ここ以外に痛いところない?」
フウカは口を尖らせながらその手を取ろうと手を伸ばします。
「大丈夫だけど、ムカつくなー」
その手が触れる直前にエリーナは振り返りました。後ろから、丁度ルカたちがいる方向から足音が聞こえてきたからです。
ルカ達が様子を見に来てくれたのかな、と思いながら振り返ると、先ほどぶつかった訓練兵、ローザン二士がこちらへ向かってきているところでした。
ルカ達に促されて謝りに来たのでしょうか。そう思うよりも先にエリーナは、彼の姿を見てびっくりしました。
彼は頭から血を流していたのです。
「え、どうしたの。その傷」
思わず問いかけますが、ローザン二士は何も言いません。ただただこちらの方へ近づいてきます。
血は少し乾いているように見えました。
「あなたねえ、危ないでしょ!?」
しりもちをつきっぱなしのフウカは、戻ってきた訓練兵に文句を言います。
しかしそれでも、ローザン二士は何も言いません。
彼女たちを見据えるその瞳になにか嫌な予感がしたエリーナは、フウカを守るように立ちました。
「あの、ローザンくん。なにかあったの? 大丈――」
刺激をしてはいけないと思ったエリーナがやんわり話しかけます。しかし途中で、ローザン二士に思いっきり突き飛ばされ地面に倒れこんでしまいました。受け身はなんとか取れましたが、肩や膝が痛みます。
一体何が起こったのか混乱していると、フウカの悲鳴が聞こえました。
痛みを無視して、すぐに起き上がり、慌ててフウカに視線を向けると、ローザン二士は彼女を無理やり立たせていました。
「な、なにするのよ!」
気丈に文句を言うフウカの後ろに回り込み、彼女の首元に何かを押し当てます。
きらりと光るそれは、ナイフでした。訓練兵に一本ずつ支給されている訓練用の物です。
首筋に刃の冷たさを感じたフウカはまた短く悲鳴を上げます。
「黙れ。お前は人質だ。余計なことしなかったらちゃんと放してやる」
乱暴な口調や冷たい視線は、やはり彼のイメージとはかけ離れています。
エリーナは立ち上がりかけた状態で動きを止め、呆然としてしまいました。
一体どうして、人質って何。何のために。なんで。どうして。何なの。
思考がループし始めたのに気づき、頭を振ります。考えているふりして、思考を放棄している場合ではありません。
「ろ、ローザン君。何やってるの。冗談でもそういうことは……」
「これが冗談に見えるかよ。ほんと、おめでたいよなここの兵士は。だから楽勝だと思ったのに……」
「とにかく、フウカちゃんを早く放してあげて。人質っていうなら、私が……」
そっと近寄ろうとすると、ローザンは敏感に反応してナイフを向けました。
「来るなッ!」
興奮している相手を説得するには時間が必要です。
エリーナは敵意がないことを示すために、両掌を見せながらゆっくり下がりました。とにかく、刺激をしてはいけない。
ローザンは表情を消したまま、エリーナを見据えます。
エリーナも彼から目を離しません。
何かできることはないかを必死に探ります。
すると、後ろから数名が近づいてくる気配を察知しました。彼女たちのようすがおかしい事に気づいたルカ達が近づいてきたのです。
エリーナはそっと後ろを向き、あまり近づかないようにと合図します。それを見たルカ達は減速してエリーナに近づくと、そっと囁きました。
「何事なんだ?」
「わからないの。いきなり……」
ハプニングの収束には冷静な対応と、的確で速やかな情報共有が必要ですが、エリーナは戸惑いが隠せません。そもそも共有する情報を自分も持ち合わせていないのです。
リクトが一歩だけ前へ出て、ローザン二士に向かって話しかけました。いつも通りのフランクな話し方を崩さないように注意します。
「君、ローザンだよね。四八五分隊の。目的は?」
「てめえらに教える義理はない。ただ妙な真似したり近づいてこなければこいつは返してやるよ。……おい、妙な真似するなつったろ、どこ行く気だ」
リクトが話している間に助けを呼びに行こうとしたルカを目ざとく見つけました。ルカは舌打ちをして動きを止めます。
「次何かしてみろ。こいつの頭を体とバイバイさせてやる。……本気だからな」
そう脅しながら、白い首筋にナイフを一層押し付けます。
フウカが一瞬顔をしかめると、ツ、と赤い液体が一筋こぼれました。彼女は取り乱す様子はありませんでしたが、恐怖で体がすくんでしまっているようです。
「……人質が死んだら、お前の盾はなくなる。殺すのはお前的にも不利益しかないんじゃないのか」
「別に。邪魔なら殺して、必要なら別の人質を探すだけだ。なんなら殺さない程度に切り刻むって手もある」
ルカの意見を、ローザン二士は鼻で笑います。それは強がりには見えず、本当にそう思っているようでした。
これで本格的に動きを封じられてしまいました。
「今はこいつが人質だ。それ以上近づいたら喉元掻っ切る」
ローザンは威嚇をしながらじりじりと後ろに下がり始めます。口調は強気ですが、顔は焦燥しているのが見て取れます。なにやら切羽詰まっているようです。
とにかくフウカとローザン二士を引きはがせれば。それができさえすればルカ達も動いて、フウカを保護したり、援護などをしてくれるでしょう。
エリーナはそっと眼鏡をの蔓を触りました。
自分ならこの状況をどうにかできるかもしれない。
ですが、眼鏡に触れるエリーナの手は震えていました。
怖いのです。
ローザン二士やナイフが怖いのではありません。自分が今考えていることを行動に移すことが怖いのです。
心臓の音が大きくなり、息がしづらくなってきました。過呼吸になりかけているのです。
ルカ達はローザン二士に集中していて、彼女の異変には気づいていません。
ここは屋外で、周りにたくさんの人がいるのにも関わらず、彼女は小さな箱の中に閉じ込められている錯覚に陥りました。周りの音がぼんやりとしか聞こえません。無理やりにでも呼吸を安定させようと、とにかく吐くことに意識を集中させます。
嗚呼、どうして自分はこうなんだろう。
肝心な時に怖気づいて。そんな場合じゃないのに。
視界が涙で滲み始めました。
自分はなんて無力なんだろう。軍に入って人の役に立ちたいという、その想いは偽りだったのでしょうか。
クラクラしてきた頭が、生産性のない自己嫌悪に陥ります。
「助けて……!」
小さな小さな声がエリーナの耳に届きました。
顔を上げると、人質のフウカが自分をまっすぐ見ていました。
先ほどまでの笑顔はなく、恐怖にゆがみ、潤んだ瞳を縁取るまつ毛が震えています。
エリーナはぐっと唇を噛みました。
自分の都合で迷っている場合じゃない。一刻も早く解放してあげなければ。
荒くなる呼吸を無理やり抑えながら、再度眼鏡に手を添え、踏み込む準備をした、その時。
「ローザン二士。馬鹿なことはやめろ」
「今なら間に合います。ゆっくりとナイフを捨ててください」
騒ぎを聞きつけたのか、ジゼル伍長とローイ三曹が現れました。
ルカ達の緊張が少し緩み、反比例するようにローザン二士の警戒心が強まります。
ジゼル伍長は今にも飛び出しそうだったエリーナを見止めると、肩をポン、と叩き、彼女より前に出ました。
アイロンをしっかりかけられた灰色の背中からは、恐怖など全く感じられません。自分より小さい体なのに、大きいその灰色を見て、エリーナはへたり込んでしまいました。力んでいた力が一気に抜けたのです。
そのままジゼル伍長を後ろから見上げます。
「ジゼル……!」
ジゼル伍長の登場に、ローザン二士は目に見えて動揺を示しました。
対してジゼル伍長は身構える様子もなく、いつもの凛とした声でローザンに話しかけます。
「これは警告だ。さっさと人質を離して投降しろ」
「俺は、俺はこんなところで終わるわけには……! 俺は他の奴らと違うんだ。なんたってLナンバーなんだ。エリートなんだよ……! そんな俺が、こんなところで……」
半ば独り言のようにブツブツとつぶやくローザン二士。
べったりとした汗で前髪が額に張り付いています。
先ほどまで迷いのなかったナイフがカタカタと揺れていました。
ジゼル伍長は、さらに二回、同じ文言を繰り返しましたが、依然聞いている様子はありません。彼女はため息をつくと、彼女は体ごとローイ三曹の方を向きました。
「警告はしました。ローイ三曹。よろしいですか?」
「……しかたありません」
ローイ三曹がうなずくと、ジゼル伍長は敬礼をしてローザン二士に視線を戻しました。
ローザン二士はビクリと反応し、ナイフを握り締めて、彼女を睨みつけます。
ジゼル伍長は数秒彼を観察するかのように見ると、いきなり何の予備動作もなく一気に距離を詰めました。まるで瞬間移動かのような俊敏さ。
ローザン二士は反応しきれず、ナイフを持った手をひねり上げられました。ローザン二士の顔に苦痛の色が現れます。
思わずナイフを離してしまった瞬間、ローザン二士は人質だったフウカの背中を思いっきり蹴り、ジゼル伍長へぶつけました。
ジゼル伍長がフウカを受け止めるために手を離すと、ローザン二士は一目散に逃げ出します。
カツン、とナイフの刃が地面にはじかれて転がりました。
ジゼル伍長はフウカを座らせると、すぐに追いかけました。その動きの速いこと。あっという間に追いつき、回り込むとローザン二士を引き倒しました。コンクリートに容赦なく叩きつけられます。
痛みで悶絶するローザン。彼の頭が当たったであろう地面にはうっすら血がついています。傷口が開いたのです。
ジゼル伍長は構わず彼の腕を後ろに回し、組み敷きました。
見事なくらいに華麗な立ち回りでした。エリーナは思わず「すごい……」とつぶやきを漏らします。
「くそっ! なんで俺がこんなめに……!」
「戻るぞ、貴様にはまだ聞きたいことが、たっぷりあるんだ」
バタバタと暴れるローザン二士ですが、ジゼル伍長から逃れることはできません。
それどころか、簡単に締め落とされてしまいました。
場が一気に静まり返ります。
ローイ三曹に「人質保護!」と指示され、はっとしたリクトとエリーナがフウカに近寄りました。
「フウカちゃん、大丈夫? ごめんね、私のせいで……」
「怖かったよう……」
近づいてきたエリーナに縋りつくフウカ。
「うん、もう大丈夫だよ。怪我は?」
その背中に、リクトは自分の上着をかけてあげました。
エリーナはフウカの首元を見ます。
血は出ていますが、傷は浅そうです。
ほっとしていると、覗き込んできたローイ三曹が指示を出しました。
「傷は浅いようですね。エリーナ二士とリクト二士は彼女を医務室へ。ルカ二士、アベル二士、ハル二士は他に損害やけが人がいないかの確認を。全員、終わったら教官室まで報告をお願いします。ジゼル伍長は、ローザン二士を連れてきてください」
ルカ達はそれぞれ指示通りに散りました。
リクトがフウカをおんぶし、エリーナはそれについていきながら、チラリとジゼル伍長の方をを振り返ります。
ジゼル伍長はローザンの上から離れると、ぐったりとして動かない彼に吐き捨てるようにつぶやきました。
「……カロカイに欺くものは死をもってでも償ってもらうからな」
それは、今まで聞いた彼女のどんな声よりも冷たい声でした。
自分に言われたわけではないのに、エリーナはゾッとしました。
ジゼル伍長がこちらの方へ目を向ける前に、その視線から逃げるようにエリーナは前を向きました。
その視線を見てしまったが最後、メデューサににらまれたかのように固められてしまう。
何故かそう思ってしまったのです。
医務室へ行くと、フウカの怪我の応急処置が行われました。
その様子を眺めるエリーナとリクトに、フウカは笑いかけます。
「あたしは大丈夫だから、報告とやらにいってきてよ」
震える声と体で、その言葉が強がりだということは分かりました。
ですが、大丈夫だと言い張る彼女の言葉に甘えて、必ず様子を見に来ることを約束して、二人は教官室へ移動しました。何が起こっているか知りたかったのです。
教官室の扉をノックをしようとすると、先に扉があきました。
中から出てきたのはロレンソです。両者驚いてキョトンとします。
「……あれ、二人ともどうしたの?」
「ちょっと、ローイ三曹に用があって。ロレンソは?」
「俺落し物拾ったからここまで持ってきたんだ。でも、今誰もいないみたいだよ」
ロレンソはそう言って、扉をさらに開けて中を見せました。「ね?」と肩をすくめます。
「ほんとだ。ローイ三曹達どこにいるんだろ」
「さあ。でも、なにかあったのかな? ここが無人ってめずらしくない?」
ロレンソの疑問ももっともでした。
教官室には作りかけのテスト、生徒の成績等、持ち出し厳禁な資料を保管しているので、必ず誰かが常駐しているはずなのです。
エリーナとリクトは思いました。
ジゼル伍長とローイ三曹が駆け付けることができたのは、偶然なんかではなく、そもそも二人がローザン二士を探していたからなのではないかと。
おそらく他の教官たちも総出でローザン二士を探していたはずです。教官室を空にするほどの大騒動。それはつまり、彼がそれほどの存在であることを示唆していました。
そこへ、ジゼル伍長と、訓練施設の様子を見てきたルカ達があらわれました。
ジゼル伍長はロレンソがいることに気づくと、問いかけました。
「ロレンソ二士ここで何をしている?」
その声は、確かに冷たくはありましたが、ローザンへ吐き捨てた言葉ほどではありませんでした。
多少の威圧はありますが、いつものことです。その威圧に少々気圧されたのか、ロレンソは一瞬返事が遅れました。
「……あ、えと。落し物を拾いまして。届けに来たんですけど、誰もいらっしゃらなくて……」
「預かろう」
「……はい」
ロレンソがポケットから取り出したのは一枚のコインでした。丸くてひらぺったく、何かの模様が掘ってあります。
ルカ達も今までに見たことないものでした。通貨というより、お守りか何かに見えました。
ジゼル伍長はそれをつまみ上げまじまじと見つめると、ロレンソにどこで拾ったのかを聞きました。
彼は中庭だと答えます。
しばし考えて、ロレンソは下がっていいと言われましたので、彼はその場を後にしました。
ロレンソが見えなくなったところで、ジゼル伍長はルカ達に言いました。
「報告をしてくれ」
ルカ達三人は異常がなかったことを伝え、リクトもフウカは応急処置をしていて、メンタル的にも身体的にもダメージは少なそうだと報告しました。その後、ローザン二士との接触してからジゼル伍長達が駆け付けるまでを問われ、エリーナが報告しました。
それが終わると、誰もが気になっていることをハルが聞きました。
「一体、なんだったのですか?」
上手くはぐらかされるかもしれないと思っていましたが、あっさりと教えてくれました。
「あいつはスパイの一人だ。本部へ移送する予定だったが、途中で逃げだそうとして、途中で貴様等を見つけたのだろう」
五人は息を呑みます。
疑っていたわけではありませんが、本当にいたのです。自分たちの中に。顔を見知って、言葉さえも交わしていた、この施設の中に。
ジゼル伍長は教官室に備え付けの時計を見上げました。
「このことは他言無用だが、すぐに広まるだろう。対応に関してはこちらに任せて、貴様等は知らぬ存ぜぬを通し訓練に集中しろ。……もうそろそろ昼休みも終わるな。エリーナ二士も、案内役は一旦解任だ。訓練へ向かえ」
ピシリと敬礼をして教官室を出ると、アベルがおどけるように言いました。
「ひゃー。怖かったな。ありゃ、目がイッてたぜ」
「どっちが? ローザン? それともジゼル伍長?」
「どっちも」
「それより、さっさと訓練の準備しようぜ。もうこんな時間だ」
「本当だ。急がないと、遅刻しちゃう……。フウカちゃんの様子、見に行く時間ないなあ……」
「仕方ないよ、終わった後に見に行こう」
「うん。あ、じゃあ、あとでね」
エリーナは途中でルカ達と別れ、次の訓練の準備のために一人女子更衣室へ向かいます。
廊下から見える外は相変わらずのいい天気でした。窓に映った自分の顔に気づき、じっと見つめます。そっと眼鏡の蔓に触れ、窓に映る半透明の自分から目をそらしました。
「急がないと、訓練に遅刻しちゃうな。訓練が終わったら、フウカちゃんのお見舞いもしないと」
パン、と自分の頬を叩きましたがが、音が鳴っただけで全然痛みは感じませんでしたし、気持ちも切り替えられませんでした。でも、それを無視して更衣室へ急ぎます。
立ち止まったところで、答えは出ない。進んでも答えは出ない。では、進むのが最善。きっと時間がどうにかしてくれる。
そう信じて。