第九章 第四話「今回はミィレちゃん悪くなくなくなーい?」

アルトはいつの間にか黒に沈んでいた。 ごぽりと、自分の息が気泡となって音を立てる。 呼吸は辛うじてできるが、苦しい。 手足は重く、粘度の高い水中にいるかのようだ。 しかし、自分の足元はしっかりと見える。 黒くて透明で、粘度が高く、少しの息ができる場所。 すべてが矛盾した場所。 「ここは……?」 あたりを見回すが、気泡があちこちに浮いているだけだった。 自分以外の生物も植物もいないのに、この気泡はどこから湧いて出ているのだろう。 足元に地面はなく、おそらくゆっくりと下へ下降していると思われる。 完全に感覚的なもので確証はないが、それも予想の範囲を出ないがそんな気がする。 「……とりあえず、上へ行くべきか……?」 水泡が上っていく方向へ行けば少なくとも上へは行けるはずだ。 アルトは足を動かして、泳ぐように浮上する。 しかし、目印も光もなく、自分が動けているかは怪しいところだ。 それでも、じっとしているよりは良いだろうと、ゆるゆると手足を動かす。 体力を温存しつつ、行けるところまで行ってみようと方針を決める。 そもそも自分はどうしてこんなところにいるんだろうか。 気が付けばここにいた。その前は何をしていったっけ。 眠っていて、夢の中なのだろうか。……否、眠った記憶はない。 そう、確か。 「そうだ、猫……!」 大量の猫に飲み込まれたのだ。 「ってことは、これはここは猫の群れの中……? って感じではない、な……。イェピカの汁で異形化しつつある猫もいた。巨大な猫に飲み込まれたとか……」 『残念だが、違う』 アルトの考えを否定する声が聞こえてきた。 驚いて動きを止める。 しかし周りは相変わらずシャボン玉のような水泡が浮いているだけ。 停止しているのか、また沈んでいっているのかはたまた浮かんで行っているのかわからない空間で、アルトはとりあえず精いっぱいに戦闘態勢に入る。 武器はない。拳を握り、あたりを警戒した。 『ここは、そうだな……』 丁度前方の水泡に変化が見られた。 どんどん一か所に集まっていく。 『クサイ言い方をするなら』 声は間違いなく集まっていく泡の方から聞こえてくる。 小さな泡が集まりが、大きな塊になり、人の形を成した。 『お前の心の中』 それは自分の姿をしていた。 □□□□ めろなは読み終わった本を元の棚に戻した。 次の本に迷って、丁度目に入った時計で時間を確認する。 閉館まで残り7時間。 まだまだ本を読む時間はありそうだ。 緑の背表紙の本を抜き出して窓際の閲覧席に座った。 目次を流し読んでから、本文に入る。 足音や服のこすれる音、咳払いは窓から差し込む光のように柔らかく、あちこちから聞こえる紙がこすれる音は、まるで内緒話をしているようだ。 その中に無駄に楽しそうな軽い足取りの、厚底ブーツの音が混じる。 本との内緒話に夢中になっていても、めろなはその音が向かいに座った気配を逃さなかった。 「……降参でも言いに来たの?」 周りの内緒話を邪魔しない音量で問う。 視線は文章に落としたままだ。 向かいの彼女は、同じく音量を落としながらも、足音と同じく無駄に楽しそうな弾む声で答える。 「まっさかぁ。このミィレちゃんがそんな事言うと思う?」 「その方が時間の無駄にならないわよ」 「暇潰しだからいいんだもーん」 そこでやっとめろなは本から顔を上げた。 ミィレは両手で頬杖をついて、何が面白いのか満面の笑みで自分を見つめていた。 めろなはその笑顔を見てため息をつく。 「……本、戻してくるから待ってなさい。話すなら外に行くわよ」 「はーい」 いい返事をしてミィレは先に外に出て行った。 今さっき読み始めたばかりの本を棚に返して、めろなも図書館を出る。 まぶしい太陽の光に目を細め、青空をチラリと見上げた。 図書館の敷地内にはベンチやいくつかのテーブルと椅子が置かれている。 外で本を読む人や、軽食を取る人、おしゃべりをする人たちのためだ。 「めろな! こっちこっち!」 名前を呼ばれて、ミィレを見つける。 彼女は白い丸テーブルを陣取っていた。 「……で、用は何?」 「もー、めろなったらせっかちさんだなあ。まずはおしゃべりしようとか思わないの?」 「思うわけないじゃない。早く本読みたいんだけど、なんなのよ」 からかうようなミィレの口調にめろなはいらいらする。 見たところ、ミィレは依頼品を持っていない。 当たり前だ。 カノンとレイブンに依頼品からは目を離さないようにときつく言ってある。 彼女がもしも依頼品のイェピカの目玉を持っているのなら、カノンもレイブンもここにいないのはおかしい。 カノンもレイブンも弱くない。 倒すのは無理でも邪魔して時間稼ぎをするくらいならば、いくらミィレ達四人が相手だとしても遅れは取らないはず。 ミィレ一人が抜けるのだって痛手なはずだ。 なのに、人員を割いてまで自分と話しに来る理由。 あるとすれば。 「見張り? だったら心配いらないわ。ちゃんと閉館までここにいるから」 めろなは無実をアピールするかのように両手を広げて見せた。 刺客を送り込んで、依頼(クエスト)の邪魔を散散したのだ。 一番の妨害である、依頼主(めろな)が約束の場所にいないということは、想定してもおかしくない。 しかし、ミィレは笑顔で首を振った。 「んーん、真面目なめろなちゃんだもん。そこは信用してるわ」 「……じゃあ何よ」 めろなは眼帯でおおわれていない左目でじとっと睨んだ。 相手のペースに乗らないように必死なようだ。 ミィレはそんなめろなを観察するようにじっと見つめ、口を開きゆっくりと動かした。 「……禁書」 「えっ?」 「猫。黒猫。イェピカの目玉。契約。赤い背表紙。アルト……えーと、あとは……」 次々と単語を連発するミィレに、めろなは慌ててストップをかける。 「ちょ、ちょっと、なんなのよ。せめて文章でしゃべって」 そんなめろなを今度は黙ってじっと見つめたかと思うと、ミィレはふぅ、とため息よりも軽いものを吐いた。 「……んー、やっぱり違うよね」 「だから、何が」 「めろなはイェピカの目玉を集めて何するの?」 突然普通に聞かれ、めろなは面喰う。 本当に彼女にはいつもいつも振り回されてばかりだ。 「聞いてどうするのよ」 「えー、言えないようなこと? やだー、めろなったらやらし……」 「今開発してる魔法陣の魔力の微調整に使うのよ! 陣の構成上、魔力がある間は発動しっぱなしだから、自分の魔力を注ぐと、魔力が切れるまで動けなくなるし、イェピカの目玉を使えば自動で止まるでしょ」 「ふーん、よくわかんないけどわかった!」 「分かってないんじゃない……」 がっくりとうなだれるめろなに、ミィレはさらに確認するように聞いた。 「じゃあ、猫さんの件は関係ないのね?」 「猫?」 「なんかね、イェピカの目玉のせいで猫さんたちが黒猫になってるんだって」 「なにそれ。私の仕業だって言いたいわけ?」 めろなは片手で頬杖をつくき、ミィレは両手で頬杖をついた。 「んー、違うとは思うけど、一応確認? みたいな?」 「なによそれ」と、めろなは呆れてため息をついた。 「よくわからないけど、とにかく私はその件とは無関係よ。用は済んだわね? なら、もう戻っていいでしょ」 立ち上がろうとするめろなにミィレはえー!と不満の声を上げた。 「つれないなあ。せっかくだしもっとおしゃべりしない? 仕事戻りたくないんですけどー」 「戻らなくていいけど、暇つぶしは自分でやって。私は話したくないわ」 風に髪をなびかせすまし顔できっぱり断っためろなは、図書館に戻ろうと振り返った。 その時視線の端に丁度、空より濃い青色がこちらに向かってくるのが見えた。 目を凝らさなくてもそれが、カノンだとわかった。 「めろなー! ミィレー!」 とどめに名前を呼ばれ、めろなはその場で彼女が降りたつのを待つことにした。 「どうしたのかしら」 「あれ、みりぃも一緒? どゆこと?」 同じく名前を呼ばれたミィレがキョトンとした声をあげる。 カノンが乗る鎌に子分のみりぃも載っていることが確認できたのだ。 しかしめろなはもう一つ気になるものを見つけ、カノンが降り立った後も、しばらく空を見続けていた。 「なんか大変なことになってるみたいだから、知らせに来たよ!」 目の前に降り立ったカノンがめろなとミィレに事の経緯を伝える。 その間にらみぃゆは無線を手に取り、らみぃゆへコールした。 「えー、もうアルトったら面白いことに巻き込まれちゃって……」 「まあなんていうか、あんたら飽きないけどあれだね。遠くから見ててちょうどいいかもね」 カノンが言うと、ミィレは「そう?」と笑った。 「そうね、私もそうしたいわ。ただ……」 めろなは視線をもう一度図書館の上の空へ向けた。 「今回ははそうはいかないみたい」 「え?」 他の3人もつられて上を見る。そこには大きな黒い塊があった。 「えーっと雨雲? 雷雲? あれがどうしたの?」 「あーあれ、なんか変な雲だなあと思ってたんだ」 カノンが首をかしげる。 空を飛んできた彼女はあれの存在に気づいてはいたが、ただの大きな雲だとしか思っていなかった。 実際、地上から見る限り、それはどう見ても雲の形状をしている。 しかしめろなはそれをきっぱりとした口調で否定した。 「私の占いでは今日は晴れのはずよ」 「じゃああれは……」 図書館の屋根の上にミィレは赤い鳥のようなものが羽ばたいているのを見つける。 そしてその下に黒い猫が一匹と人影が一つ。 全員がそれが何なのか分かったところでめろなは大げさにため息をつき、頭を抱えた。 「なんでよりによってここに……私を巻き込まないでくれない?」 「今回はミィレちゃん悪くなくなくなーい?」 睨まれてたミィレは口を尖らせる。 「ミィレさん、ジェンさんとつながってます」 みりぃが自分の小型無線機を差し出す。 受け取り、耳に当てると黒い兎がジェンの声で話し出した。 『こちらジェン。ソフィア確保したぞ。ツッコミのことは聞いたな? まだどこいるかわかんねえんだ。とりあえず合流……おい? 聞こえてるか?』 長々と話しても何も反応しないミィレにおかしいと思い、ジェンは呼びかける。 ミィレはめろなが吐いたものよりずっと小さなため息を吐いて、黒い兎に話しかけた。 「ジェン、ソフィア。こっちに来て」 ミィレは図書館の屋根の上を見つめながら言う。 「アルト、ここにいるわ」 遠目だったが、屋根の上にいたのはどう見てもアルトだった。

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