第四話「眼鏡をおおうて雀を捕う」

ルカの勘はあまり当たりません。 今日だって、朝からいい天気で、好物のトマトが朝食に出て、エリーナも笑っているのを見たので、いい日になりそうだな、なんて思ったのです。 でも、その予測なのか、希望なのかわからない幸せな勘は、まず、朝食後、一旦最初の訓練の準備のために自分たちの部屋に戻った時にヒビがはいりました。 それは薄く、ピリっとした傷でしたが、おかげでいい日、とは言い難くなってしまいました。   私室が荒らされていたのです。 棚の上の本はすべて落とされ、ベットは布団どころかシーツまで剥がれ、数少ない私物は廊下にまで投げ出されています。 ルカ達の部屋だけではありません。他の二つの班も同じような状況でした。 それはそれは無残な状態を前に、ルカ達は一瞬のショックを受けます。 ですが、それは本当に一瞬で、すぐに全員がやれやれとため息をつきました。 「ついてなーい」 「”朝食後にチョーショック”だぜ。まったくよー」 「二点」 「えー、まじで? 今のは自信あったのになー」 「むしろなんでだよ……とにかく、さっさと片付けようぜ」 「そうだな」 そう言って四八一分隊は、それぞれの班で役割分担をして片づけを始めました。 ルカは廊下に散乱しているものを拾い上げ、リクトはベットメイク、アベルとハルは室内に散乱しているものを個人別に仕分け始めます。 一見すると泥棒が団体で入ったんじゃないかと思えてしまうほどの惨状にもかかわらず、誰も一体何があったのか、なんて追及しません。 それもそのはず。彼らは何があったのか、よく知っていたのですから。 リクトがシーツを伸ばしながら言います。 「今回は派手に来たね。嵐」 「最近は割とマメに掃除してたつもりなんだがなあ。どこが駄目だったんだ?」 「その答えは、聞かなくても後でリスト化されてくるんだろうな……」 「わー、ヤダヤダ」 この惨状は教官たちの仕業でした。 訓練中や食事中など、訓練兵がいない間に、抜き打ちで私室の検査が行われるのです。 ベットメイクの仕方、本棚の整理の仕方、掃除が行き届いているか。 チェック項目がいくつあるのかはわかりませんが、それが一つでも”なっていない”と判断されれば、こうなってしまうのです。 毎回重箱の隅をつつくようなところまで丁寧にチェックされ、荒らされるこの抜き打ちを、訓練兵たちは嵐に例えて呼んでいました。 全員で自分の物を片付けていると、ルカは、”いいことありそう”の二つ目のヒビを見つけてしまいました。 ピキン。 ルカの顔がさっと顔が青くなります。 「おーい、遅れるぞー」 どうやらなんとか片付けたらしい三班のロレンソが、声をかけてくれました。 ルカ達はそれに軽く返事をしました。 時計を見ると、確かにそろそろ動き始めないとまずい時間です。 「あとは、寝る前にやるしかないね」 「げー」 「とりあえず行こ。……ルカ! 何やってんの、行こうよ」 「え? あ、ああ。うん」 ルカはハルの声に反応し、あわてて立ち上がります。 その際、手に持っていたものをポケットにねじ込みました。 まだどこにも収まっていないものをシーツにくるみ、見せかけだけ片付けたようにしうまく隠します。 嵐が一日に二回も来たことはありません。 そうやってとりあえず取り繕うと、ルカ達は部屋を出ました。 ですが今日ルカ達が向かうのは、座学の教室でも、更衣室でも、グラウンドでもありませんでした。 本日はこの訓練施設全体のお休みの日なのです。 週に一度の休日。 過ごし方は人それぞれですが、教官も訓練兵も大半は近くの町へ繰り出します。 外出する際には申請書も、よっぽどのことがない限りそれが差し止められることはありません。 物資は一日に一度運んでくるので、ただ生活するだけであれば街へ行かなくても何の支障もないのですが、訓練施設内で手に入るのは本当に必要最低限の物ばかり。 それに、ずっと代わり映えのしない施設に押し込められていたら、ストレスがたまり、育つ才能も育たなくなってしまいます。 平時の、街との往復のバスは一日二便。 物資運搬に使われるものです。 ですが、休日は五便に増え、人間も運びます。 それが唯一の交通手段なのです。 「わー、これ乗れるかな」 「今日、街行く人多いね」 バス乗り場へ着くと、そこには既に長蛇の列が形成されていました。 先着順で乗らないといけないので、乗れなかったら次のバスを待つしかありません。 乗れるかどうか、ギリギリの位置です。 それでも、彼らの後ろにも人が並び始めました。 背の高いハルが前方の様子を伺いました。 「これは、帰りも早めにバス待ったほうが良いかもね」 「えー、マジ? いっぱい遊びてーのに」 顔をしかめるアベルに、リクトが「そうだけどさ」と、同意しつつたしなめます。 「しょうがないでしょ。最終便乗れなかった―なんて笑えないし」 帰りの最終便を逃すと悲惨です。 そこから歩いて帰らないといけない上に、門限を過ぎた罰でさらに訓練を受けることになります。 街と訓練施設は、歩きだと片道半日くらいでしょうか。 しかも途中は軽い山道になっています。 最終便を逃して歩いて帰るならば、着く頃にはすっかり朝になることでしょう。 それさえ気を付けていれば、街へ行くことはちょっとしたご褒美なのです。 毎回、朝、バスを待つまでの一時間くらいは、皆、遠足に行く子どものようにはしゃいでいます。 「遠足だったらこんなにはしゃがないでしょ」 ルカがぽろっと口にした言葉を、リクトがばっさりと切り捨てました。 それにアベルがうなずきます。 「遠足なんて長いし辛いし重いし、準備とか練習だけでもテンション下がりまくるっつの」 「ルカ、遠足楽しみだったの……?」 ハルまでもが信じられないものを見るような目で見てきました。 ルカはいやいや、とツッコミを入れます。 「そっちの遠足じゃなくて、世間一般的な遠足だよ」 「ああ、そっちね」 「わかってただろうが! 白々しい」 彼らが言っている遠足、とはお弁当を持ってみんなで遠くの公園へ行くなんて平和なイベントではなく、訓練での遠征訓練のことです。 まだ近場や、グラウンドでの訓練でしかやっていませんが、それでも一番きつい訓練だとみんな口をそろえます。 武器や食料、寝具、テントなどを持って長く長く歩く訓練です。 ただひたすら歩く練習をするのです。 本番では、前線基地まで見学場所まで往復します。 それが彼らにとっての”遠足”であり、この訓練兵課程の中間テストなのです。 そのことを考えるとずーんと気分が落ち込みます。 ですが、そんな先のことで落ち込んでいるよりも、今ばかりはせっかく外に出れるのですからそれを楽しまなければ損というものです。 損なのですが。 ルカは街での楽しい計画ではなく、ポケットに入っている手紙について考えていました。 部屋を出るときにポケットに乱暴に突っ込んだ為、若干ぐしゃぐしゃになってしまったそれは、妹からの手紙でした。 先ほど、抜き打ち検査で荒らされた部屋を片付けているときに出てきたものです。 ルカのもとに届いたのは丁度、スパイがいるとエルガー二尉が朝礼で言った日の朝。 もう二週間ほど経つでしょうか。 リクトに便箋をもらってまでいたのに、準備した時点で満足してしまってすっかり忘れてしまっていたのです。 すぐに返事しなければならないほど、頻繁なやり取りしていたわけではありませんが、 今回の手紙には今年の両親の結婚記念日のサプライズプレゼントの相談についてのことが書いてありました。 記念日はまだまだ先ですがしかし、妹はしっかりもので、早め早めに決めておく性格です。 きっちり予定を立てて、計画して。 それなのに手紙を放置して何日が経ってしまったでしょう。 なんて怒られるかわかりません。妹に叱られたところで怖くはありませんが、面倒くさくはあります。 プレゼントをルカが持って帰るというのが、簡単に思いつくサプライズですが、その日に家に帰れる保証はありません。 カレンダーや予定を確認して、あと二,三アイデアを適当にひねり出しておいた方が無難でしょう。 こんなに頭をフル回転させていたら、思考の余白はなく、せっかくの街に繰り出したとしても楽しめるとはとても思えません。 ルカはしばらく葛藤した後、深く深くため息をついて自分を諦めさせると、バス待ちの列から外れました。 「ルカ?」 「すまん、今日はやめとくわ」 「え? まさか出かけない気なの? 許可は取ってるんでしょ?」 「取ってるが、ちょっとヤボ用思い出して」 「どうしたの、ルカ。いきなりそんなこと言いだすなんて」 ハルがキョトンとした顔で首をかしげます。 「ちょっとな。悪い。戻る」 頭にはてなを浮かべた仲間たちを置いて部屋へ戻りました。 休日なら来週もあります。今日は節約したということにすればいいのです。 自分で自分に説得をしながら、筆記具とノート、それにリクトからもらった便箋を用意しました。 妹の御機嫌取りのために、リクトに譲ってもらったうさぎが飛び跳ねている可愛らしい便箋は数枚。 あまり失敗するわけにはいきません。 とりあえず下書きのために、ノートを広げしました。 ですが、アイデアが浮かぶどころか、家に帰ると言うサプライズもよくよく考えるとあまり現実的ではないことに気が付いてしまいました。 訓練は後期になると、さらに厳しくなると聞いています。 家に帰る時間も体力もないでしょう。 唯一のアイデアも実行は難しいことが判明し、頭を抱えます。 その状態で数分もしないうちに、今度は突然立ち上がりました。 気分転換に場所を変えようと思ったのです。 部屋から出る直前、ルカは動きを止めました。 一旦、荷物を置いて床に腹ばいになります。 そうして、自分のベットの下に手を突っ込みました。 枕から三歩分くらい離れた床下を探ると、ほんの少しずれた床板を指先の感触で発見します。 それをはがすと、床板一枚分の穴が開きました。 さらに手を突っ込むと、木箱を取り出します。 その中には大切な眼鏡のコレクションが収まっているのです。 嵐が来ると、そのたびに私物は乱暴に投げ捨てられます。 このままじゃ、いつか眼鏡に傷が入ってしまうと悩んでいました。 落とされてヒビなんて入ったら、ルカは発狂して除隊処分を食らうくらい我を忘れかねません。 教官たちに殴りかかるという命知らずな真似をしかねないのです。 偶然床板がはがせることを見つけたのは、そんな時でした。 流石にベットをひっくり返されるほどの嵐はまだ来たことありませんので、以来、眼鏡はここに保管するようにしています。 眼鏡入れとノート、筆記用具を持つと、近くの空き教室へ向かいました。 空き教室に入ると、ルカはとりあえず木箱を開けました。 中には眼鏡のケースが四つ収まっています。 そのうちの一つを取り出し、中の眼鏡を磨きながら思考を巡らせます。 ルカは眼鏡を掛けるのも見るのも好きですが、同じくらい手入れをするのも好きでした。 ですが日中は訓練や勉強、その他洗濯や靴の手入れ等、訓練外でもしなければならないことが山積みされている中で、 時間を作って同期とのおしゃべりしたり遊んだりしないといけないので、毎日大忙しなのです。 なかなかゆっくり眼鏡を磨いている暇はありません。 そのため、自分の隊長や明日の訓練の内容などを鑑みながら、 夜中、みんなが寝静まってからそっと抜け出して最寄りのトイレやこの空き教室で手入れをすることにしていました。 消灯時間を過ぎてしまっていても、部屋に鍵がかけられることはありません。 もちろん、意味もなくうろうろしていたら巡回している教官たちに怒られることもありますが、トイレは共同の物しかありませんので、ある程度は誤魔化せるのです。 ですので、明るい中、この教室に来るのはなんだか新鮮でした。 レンズを掲げてもう曇りがないか確認したところで、ルカははっとします。 いつの間にか眼鏡を磨くことに集中してしまって、いいアイデアは一つも浮かんでいません。 次の眼鏡に手を出す前に、妹の手紙をもう一度読んでみますが、何も変わりません。 何故こんなにも頭を悩ませなければならないのでしょう。 せっかくの休日だと言うのに。 ピキン、とまたひびが入った気がました。 「もー、いいか……めんどくせえ……」 もうすっぱり諦めて、現実逃避のために眼鏡をしっかり手入れしてしてしまおうと、妹の手紙を封筒へ仕舞おうとしたそのとき。 「ん? なんだこれ……」 ルカは、封筒が二重になっていることに気が付きました。ひっついていて今まで気づきませんでした。 そこにはもう一枚紙切れが入っています。 開いてみると、そこにはタイプライターか何かで打たれた意味不明な文字が並んでいます。 封筒は何の変哲もない市販のもの。 封蝋には、ルカがこの訓練施設に来る前に買ってあげた、クスの花のスタンプが、封蝋に刻印されています。 書いてある宛名の文字も、まぎれもなく妹の物だと思われます。 ということは、妹のイタズラなだろうか、とじっと文字を見つめていると、外の方から声が聞こえてきました。 この教室の丁度外に向いている窓からは射撃場の外壁しか見えません。 窓と射撃場の間は人がやっと通れるくらいで、位置的にも近道に使われることもない場所です。 ですから、ルカも眼鏡の手入れ場としてそこを選んでいました。 しかも今日はほとんどの人が街へ繰り出す休日。 予想外の人の声にぎくりとします。 思わず息を詰めて、気配を消します。 今は昼間であり、見つかってもさほど問題はないというのに。 「リノくん、どうしたの? 話って……」 外から聞こえてきたのは、紛れもないエリーナの声でした。 「あ、あの。その……」 続いて、リノの声。 緊張しいで、意見を言うのが苦手なリノに、エリーナは優しく語りかけます。 「うん、ゆっくりでいいよ」 「あ、ありがとう、ございます……」 告白。 ルカの頭の中にその言葉が浮かびました。 人も通らず、目立たないその場所は確かにこっそり愛の告白をするには絶好の場所でしょう。 褒められた行動ではないとわかりつつも、そっと窓へ寄り耳を澄ませます。 カーテンが引いてあるので、物音さえ立てなければルカがいることはわかりません。 エリーナはマドンナと謳われるだけあって、何人からも告白を受けているようです。 誰とも付き合ったりはしていないと聞いていますが、真相はわかりません。 四八一分隊で彼女に振られたものはいないのですが、その最初の一人となるのがリノでもおかしくはありません。 でも、そこにいるのが自分ではないということに、ルカの胸はざわざわしました。 ですが、誰が誰を好きになろうと、口を出す権利はありません。 それを素直に認めようとしない彼には。 ピキン。 「あの! で、すね!」 緊張を昂らせたリノが、彼にしては大きな声を出します。 それはすぐすぼみそうな声を、無理やり前へ押し出しているようでした。 エリーナは急かすでもなく、責めるでもなく、彼の言葉を待って、応援するかのようにやさしく「うん」と相槌を打っています。 「あの、この前、の! かっこよかったです!」 「この前?」 「あの、ほら。アベルさんと、リュメルさん、が喧嘩したとき、の」 ルカは眉を顰めました。 アベルとリュメルはしょっちゅう喧嘩していますが、それにエリーナがかっこよかった時とは、一体どういうことなのでしょうか。 「……あ、あれは……その、あれは……」 エリーナの動揺の声にルカはまた首をかしげます。 彼女は一体何にそんなに狼狽しているのでしょう。 ルカからは見えませんが、エリーナは顔を凍りつかせていました。 しかし、リノは自分のことにいっぱいいっぱいで、彼女の様子に気づいていません。 「それ、で! 僕の近接戦闘の練習に付き合ってほしいんです!」 ルカは「はぁ?」と思わず声を漏らしました。 慌てて口を閉じて、外の様子を伺います。 窓の外の二人には聞こえていないようです。 確かにエリーナは、筋力や体力でも男子に劣ることはありませんが、そこまで近接戦闘が得意というわけではありません。 四八一分隊で言うなら、平均位の成績でしょう。 近接戦闘なら彼と同じ班のオットマーやロレンソの方が成績良いのに、何故わざわざエリーナにそんなことを頼んだのでしょうか。 そして、エリーナは何故そんなにも取り乱しているのでしょうか。 「あ。あの。リノくん。私……」 「あの時のエリーナさん強くて、ちょっと怖かったけど、でも……!」 「ごめんなさい!」 リノの声を遮って、エリーナが断ります。 ですが、リノも慣れない勢いに乗ってしまい、止められないのでしょう。引き下がりません。 慣れない大声に時折声を裏返しながら、続けます。 「お願いします! ど、どうか、一度だけでも……あの、ご迷惑なのは、わかって……」 「違うの!」 エリーナの声に遮られ、リノはやっと黙りました。数秒の空白。 「……ごめんね。でも……それは嫌なの!」 エリーナはそういって走り去ってしまいました。 しばらくリノはそこに突っ立っていましたが、やがて足音が遠のいていきました。 隠れて息を詰めていたルカははーっと、ため息をつき、そのまま伸びをして壁にもたれかかりました。 いったいなんだったのでしょう。 先ほどの状況を反復しながら、不思議な個所を洗い出し、できうる限りの予想を立てます。 何故エリーナに近接戦闘訓練の稽古をつけてもらおうと思ったか。 そもそも、アベルとリュメルの喧嘩した時とは、いつのことなのか。 その時に何があったのか。 かっこいいはわかるけれど、ちょっと怖かった、とは。 もしかして、もしかしなくても、エリーナのあの、ぎくしゃくした感じと関係があるのではないでしょうか。 しかし、それ以上の予測が立てられず、ルカは思考の行き止まりにたどり着いてしまいました。 手紙のことは完全に忘れているようです。 他に何かヒントがなかったかと、記憶を漁っていると、ふっと視線が時計をとらえました。 瞬間立ち上がります。 自分の腕時計と見比べてみますが、どちらも同じ時間を指しています。 空き教室の時計だから針が進んでいるなんてことはなく、正確な時間を示していました。 遅れていなかったのは不幸中の幸いですが、不幸には変わりありません。 もうすぐ街へ繰り出した訓練兵たちを載せたバスの最終便が返ってきます。 その後、帰還確認の点呼があるのです。 遅れたらもちろんペナルティが課せられます。 慌てて眼鏡を箱にしまい、小脇に抱えると、教室の外へ飛び出ました。 そのまま、最短ルートで自分の部屋へ戻ります。 部屋には誰もいませんでした。 とりあえずベットの下に眼鏡箱を突っ込むと、ルカは部屋の外へ出ました。 本来ならば班員を探して合流するのが最優先なのですが、彼はまっすぐ目的地へ走り出しました。 休日の点呼は食堂で行われます。 ここから普通に移動すれば七分という微妙な道のりです。 とにかく、ヤバイという三文字が頭の中に乱立します。 色は赤色。 彩度や明度、大きさはバラバラです。 そんな三文字達はぶつかろうが、重なろうが構うことなく出現してひしめき合います。 同時に”今日はいいことありそう”はヒビだらけになっていきます。 形があったならもはや原型をとどめていないでしょう。 「ああ、そんなに急かさなくてもヤバイってことはわかってるよ!」 ルカは思わず自分の頭の中に文句を言いました。 きっと訓練の走り込みの時以上のスピードが出ているでしょう。 今なら分隊一、足の速いオットマーにだって勝てる気がします。 人が目の前に出てきたらぶつかるか、避けれても勢いよく窓か壁に突っ込んでしまうでしょうから、 怪我人が少なくともルカをを含め一名以上は出てしまうでしょう。 その方が明確な遅刻の理由にできるかな、なんて思ったりしましたが、 血がダラダラ流れていても、腕が折れていても、多分ジゼル伍長は容赦なく叱咤して罰を与えるでしょう。 先日、訓練に遅刻したリュメルは腕立て、腹筋、三㎞持久走のフルセットをやらされていました。 それも、連帯責任でチームの三人を巻き込んで、昼休み中ずっと。 血だらけで、フルセット基本訓練。 それを想像して足の回転を緩めるどころか速めました。 怪我をしようが何をしようが間に合うことが最優先事項です。 靴底が廊下の床にこすれるたびに、キュッという鳥肌の立つような音が鳴ります。 T字路を右に折れると左から直進してくる人と合流しました。 ロレンソです。二人は無言で並列して走り続けました。 後はしばらく直進して、もう一回だけ右に曲がるだけです。 「ロレンソ、あと何分だ!?」 半ば怒鳴り気味で聞くと、ロレンソは腕時計を見て答えます。 「あと四分! カップラーメンが余裕で作れるね!」 「作ってる暇はないけどな!」 何とかなりそうだと思うと、体力をちょっとだけ無駄口に回す余裕さえ出てきました。 そのまま目的地である食堂に駆け込みました。 扉を開けた瞬間、怒声や叱咤が飛んでこないということはまだジゼル伍長はいないようです。 すばやく食堂内に目を走らせると訓練兵小隊約六〇名が五列縦隊でならんでいるだけで、確かにあの栗色の髪の鬼教官は見当たりません。 ラッキーとばかりに、同期達の列の間をすり抜け、自分の定位置に身を滑り込ませます。 その間同じ分隊の仲間から、からかうような声をかけられました。 「遅かったね。危なかった」 「セーフセーフ」 「葉っぱついてるよ。どこ通ってきたのさ」 「どこいたんだよお前等」 肩を小突かれながら、身なりを整えます。 息を完全に整える前に、食堂の扉が再度開かれました。 ジゼル伍長が入っていきます。 初年兵達は反射的に姿勢を正し、見事に揃った動きで敬礼をしました。 「なおれ! 各分隊点呼。代表者は報告」 その指示により、まず各班で点呼を取り、分隊の代表者に伝え、分隊代表者はジゼル伍長に報告しました。 「……よし、全員いるな。では、通常通り、〇七〇〇より夕食、入浴、就寝である。休みだろうが、きっちり時間厳守すること。以上」 終わると、ジゼル伍長は食堂を後にしました。 訓練兵たちはホッと胸をなでおろします。 「間に合わないかと思ってヒヤヒヤしたぜ」 後ろからアベルがルカの肩に腕を載せてきました。 「俺も間に合わないかと思った」 「一応探してたんだぜ? でも、途中でリクトが先に行こうっていうもんだからよ」 「えっ、オレのせい?」 アベルは別段責めるような口調ではなかったのですが、自分の名前がでて、リクトは苦笑いしました。 赤髪の中で一房だけ金髪に染めた髪をいじります。 「行くべき場所はわかってたから、すれ違うより先に行ってた方がいいと思ったんだけど」 確かにその判断は正しかったでしょう。 ギリギリまで探されていたらそれこそすれ違いしか起きていなかっただろうし。 と、素直に認めるはちょっと面白くなかったので、そうは言わずに、ルカはちょっとだけ憎まれ口を叩きました。 「とかいって、もしもの時は俺だけ切り捨てる気だったりして」 「えー、心外なんだけど。そもそもチーム行動が原則なのに、そんなことできるわけないでしょ? 連帯責任は俺もやだし」 「どうだか、お前なら口八丁でどうにかなりそうだよな」 「そんな褒められると照れるんだけど」 「照れんな。否定しろ。……ま、先に行ってくれてて助かったよ。実際」 これで、ルカだけ時間に間に合っていても、ルカ以外が間に合っていても、班単位の罰は免れなかったでしょう。 ルカが礼を言うと、リクトはちょっと得意そうな表情になりました。 「でっしょー? 感謝してよね」 「うん。リクトは頭の回転が速いよね」 追撃でフォローを入れるのはハル。 ハルは多分本当にそう思って言っているのでしょう。 ちょっとズレているところもありますが、皮肉なんて言わないのが彼です。 人が喧嘩しているのを見ても、仲がいいね、なんてトンチンカンなことを言い出します。 いや、それは褒めすぎでは。 なんて言葉はルカは飲み込みました。 彼の柔軟な対応のおかげで助かったのは事実なのですから。 「いやそれは褒めすぎだろ」 ですが、アベルが代弁してしまいました。 「いやいや、少なくともアベルよりはいいでしょ」 確かに頭は悪くありません。 このむしろ座学の成績は四人の中で一番いいのです。 ですが、彼がその回転を速めるのは大抵、悪知恵を使う時なのです。 夕食を終えたルカ達は一旦部屋に戻りました。 風呂の時間には余裕があるので、その間に今朝残した、嵐の後片付けをしようと思ったのです。 班ごとに一部屋を割り振られている生活棟は、全四階。 ワンフロアに八部屋あります。 ルカ達四八一分隊は、その最上階に割り振られていました。 最上階と言っても、眺めがいいというわけでもなく、むしろ移動に時間がかかってしまうあまり割に合わない位置です。 ちょっといいところといえば、四階のフロアは四八一分隊が貸し切り状態ということくらい。 そして、階段で訓練外で足腰を鍛えられるということくらいでしょうか。 「それで、ルカどこにいたの……?」 風呂の順番待ちの間に、途中だった片づけをしながらハルが話を蒸し返しました。 彼に悪気は一切ないでしょう。 そこにアベルがあー、と続けます。 「そういや、たまにあるよな。夜中とか。お前どこ行ってんだ?」 ギクリとします。 いえ、決してやましいことをしているわけではないのですが、思春期のルカとしては素直に言いにくいのです。 大好きな眼鏡を磨きに行っていたなんて。妹の手紙の返事を考えていたなんて。 「え、えっと……ト、トイレだよ、トイレ」 したがって、意味もなく言葉を詰まらせてしまった上に、嘘をついてしまいました。 怪しさ満点です。 その様子を見たアベルが何を勘違いしたかこんなことを言い放ちます。 「なんだよ、うんこかよ」 「ちげーよ!」 「だとしても口に出すなよな!」とルカは心の中で悪態をつきます。 「じゃあなんなんだよ」 「それは……」 口をとがらせて追及をしてくるアベルに、それにまた口ごもります。 よくよく考えれば、眼鏡の件はともかく、妹の手紙の件に関しては、話してもよかった気がします。 そのうえで両親へのプレゼントのアイデアを一緒に考えてもらうという手もあったのです。 ですが、もう後の祭り。今更言い出せるわけがありません。 ルカが追い詰められていると、一人の客人があらわれました。 「やめていただけませんか」 おかげで追及は止みましたが、ルカはゲッと声を上げそうになってしまいました。 客人はルイスだったのです。 風呂から上がったばかりなのでしょうか、いつもはワックスでピシリと七三にキメている髪型が、少々乱れています。 彼の登場で助かったのですが、ルカは思わずむっとしてしまいました。 もう割れることもないと思っていた”いいことありそう”がまたピキンと音を立てました。 ルイスは相変わらず、ルカなど気にしていない様子で、口を開きます。 「隣の私たちの部屋にまで会話が筒抜けです。そうじゃなくてもいい年して、そんな下品な話題は卒業してください。軍の品位にもかかわりますので」 部屋と部屋の壁は薄く、あまり騒ぐと会話は筒抜けになってしまうのです。 ルカは自分がピンチだったということを忘れて言い返しました。 「うっせーな。聞かなきゃいいだろんなの」 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、ではありませんが、ルカはルイスの一挙一動にいらだちを感じてしまいます。 完全に脳が彼を敵だと判断しているかのようでした。 ルイスも負けずに言い返します。 「聞きたくなくても聞こえてしまうんです」 「じゃあ耳栓でもしとけ」 「……そもそも、ルカ二士とロレンソ二士は時間ギリギリだったことをもう少し反省しなさい。彼らのチームのメンバーも。たるんでますよ」 「今、それは関係ないだろ。それに、間に合ったからいいじゃねえか」 「そういう問題ではありません。貴方は以前から……」 パリンという音が、ルカの中で大きく響きました。 「以前から以前からってうるせーな。昔のこと蒸し返すんじゃねえよ!」 ◇◆◇◆ リノは自分のことがあまり好きではありません。 昔から目立つのが苦手で、怖がりで、頼りない。 そんな自分を変えたくて軍に入ったのに、何も変わらず、同じ班や分隊の仲間に助けられてばかり。 これではだめだと分かっているので、入隊当初から勉強や個人トレーニングをこっそりと続けていましたが、やはり独学では限界があります。 苦手な近接戦闘は特に。 誰かに協力を乞うという考えは前々からありました。 しかし、ただでさえ訓練で疲れている仲間に、さらにトレーニングに付き合ってくれとはいいにくかったのです。 それに、なにより相手に迷惑がられるのを恐れていた彼はなかなか行動に移せませんでした。 やっと今日、なけなしの勇気を振り絞り、未来の勇気の前借までする勢いでエリーナに頼んでみましたが、結果は玉砕。 いえ、それより悪いかもしれません。 断られただけではなく、彼女を傷つけて嫌な思いをさせてしまったのですから。 その時のエリーナの表情を思い出して落ち込んでいると、後ろを歩いていたロレンソが声をかけてきました。 「どうしたの? 元気ないね」 やさしくて、いつも周りに気を配ってくれるロレンソ。 一瞬相談しようかとも思いましたが、今回は明らかに自分に非があります。 エリーナは明らかにその話題を避けていたというのに、自分から突っ込んでいったのですから。 それは、自分で何とかしなければ、という比較的前向きなものではなく、そんなことした自分はどう思われるかわからないという、後ろ向きなものでした。 結局、エリーナにお願いするために勇気の前借をしたリノは、相談する勇気さえもなく、曖昧に笑うしかありませんでした。 「あ、うん……。ちょっとね。なんでもないよ」 「そっか。なんかあったら言いなね」 「……うん。ありがとう」 ほら。また仲間にいらない心配をかけてしまった。 と、リノはさらに落ち込みます。 ですが、今は下を向いて立ち止まっている暇はありません。 彼らは夕食を六十人以上いる訓練兵小隊の中で最後に食べ終わりました。 というのも、誰が悪いというわけではなく、通りがかりの教官に偶然荷物を運ぶよう命じられていたので、その分、スタートが遅れたのです。 片付けが進まずイライラしている食堂のおばちゃんたちに、愛想笑いを浮かべつつ夕食を掻きこんだので、味どころか、おかずが何だったのかのかさえわかりませんでした。 食事が終わると食器を返し、今度は風呂場まで急ぎます。 これを逃すと、今日はタオルで体を拭く他ありません。 いっぱいになったお腹が痛くならない程度に足を速めます。 「風呂の時間すぎてないよな」 一番後ろにいるオットマーが心配を口にすると、ロレンソは腕時計を見ました。 「大丈夫大丈夫。湯船につかるほどの時間はないけど、ちゃんと間に合うよ」 冬であれば泣き言の一つも言いたくなりそうですが、今の時期ならシャワーだけでも大丈夫でしょう。 それに、食事も、風呂も洗濯も睡眠も、有事の時に対処できるよう、短い時間でもこなすのも訓練のうちなのです。 「一班の奴等が帰りを待ち望んでいるだろうからな。急がねば、俺たちの業を背負わせてしまうことになるぞ」 「そうだね、すぐに上がって交代してあげないとね」 先頭のシュメルツの少々難解な言葉に、リノが相槌を打ちます。 お風呂は各班ごとの順番さえも決まっています。 四八一分隊は八時から九時の間に二班、三班、一班の順番で入浴を完了させなければなりません。 やっと風呂場に着くと、脱衣所から二班リュメルの声が聞こえてきました。 「なんでだヨー! 本当なんだっテ!」 「ふん、馬鹿馬鹿しい。そんなことありえるわけないじゃないですか。あったとしても、錯覚や勘違いです」 「わかんねえだロ! ネスさんだってそう思うよナ!」 「どうでしょうね。どちらも絶対違うとはいいがたいとは思いますが」 「だロ!? わかんねェよナ!」 なにやらネスが中立についたところで、リュメルがリノ達に気付きました。 「あっ、お前ラ! 丁度いイ!」 リュメルがまだ濡れた銀髪をタオルで拭きながら近づいてきました。 オットマーは怪訝そうに「なんだ?」と言いながら上着を脱ぎます。 こうしてしゃべっている間も風呂の時間は刻一刻と減っていっているのです。 棒立ちになっておしゃべりに興じている時間は有りません。 「リュメル二士。こんなところで私語をするのは規律違反です。速やかに部屋へ戻りますよ」 注意をするルイスのイラだった様子に気づく様子はなく、リュメルは笑顔で手をひらひらと振ります。 「オウ! すぐニ行くカラ、先行っててくレ!」 成績優秀でおしゃべりが好きとはいえない二人と一緒のチームで、気後れしたり、気分が滅入らないのはきっと彼くらいです。 どういう基準で分隊や班が分けられているのかはわかりませんが、絶妙な采配といえるでしょう。 「班行動は原則中の原則です。そういうわけには……」 「ルイス」 当たり前のように引き下がらないルイスの声をネスが遮りました。 「今ここでその問答をすることこそ、時間の無駄であり、私語に分類されると思いませんか? それより、リュメルの用事をさっさと済ませてもらった方が、効率的かとおもいますが」 まくし立ててはいないのにもかかわらず、口を挟む余地はないと感じさせる口調。 ルイスはネスの相変わらずの笑顔をじっと見つめると、納得したのか諦めたのか、うなずきました。 「……ネスさんがそういうなら」 普段なら同じ訓練兵も階級付きで呼ぶルイスでさえ、ネスにだけはさん付けをします。 それだけ一目置かれた存在故、少々孤立気味ではありますが、本人は気にしていないようです。 そもそも、彼が一人でいてもみじめ、とか寂しいなんて思えません。 孤高という言葉がこんなにも似合う人はそういません。 リノはそんな彼がかっこいいとも思っていましたが、少し怖いとも思っていました。 「…では、先に言っていますが、すぐに追いつくように」 ルイスはリュメルに釘を刺し、ネスと一緒に脱衣所を出ていきました。 「わかっタ!」 ネスは、出ていく直前にリュメルを向いて、意味ありげにうなずきました。 それを確認すると、リュメルは声を潜めます。 「明後日のヨル、久しぶりに怪談大会しようゼ!」 「怪談大会!」 その言葉にオットマーは目を輝かせました。 「もちろん参加するぜ! 俺以外が言い出すってすげー珍しい! 嬉しすぎる!」 怪談大会は四八一分隊でたまに開催されていた非公式イベントでした。 参加は自由で、立候補した者が怪談話を披露すると言うもの。 主催者は大体、怪談好きのオットマーです。 大げさにも見えるくらい喜ぶのも無理はないでしょう。 喜ぶ彼のその隣でロレンソが首を傾げます。 「明後日? 俺も参加するけど、随分急だね?」 「そうなんだヨ、実ハ……」 盛り上がるオットマー達を横目に、リノとシュメルツはそそくさと、入浴の準備をします。 「フッ、俺様とリノには無縁の話だな。そういう話は……あれだ、俺様の存在に闇の魍魎たちが……」 シュメルツが言い訳を言い連ねているのを遮り、リュメルが言いました。 「あ、リノとシュメルツも来いよナ!」 「えっ」 「へっ……」 リノとシュメルツは思わず体を硬直させました。 お化けの類が得意ではない彼らはいつも、怪談大会は欠席していたからです。 「な、な、なんで……」 「なっななな、何故俺様もその危険な集いへ誘われなければならぬのだ。お、おお、俺様、俺様は……」 取り乱して青い顔をする二人に、リュメルは笑顔で親指を立てる。 「全員参加を予定してんダ! たまにはいいだロ? 楽しいゾ!」 「強制はちょっと、どうだろう。苦手な人もいるんだしさ」 「そうそう、そもそも、全員参加なんてお前の班が一番難関だろ?」 すかさずロレンソとオットマーがフォローに入りました。 確かに、リュメルの二班は一番難関でしょう。 なにしろ、ラスボスと言って良い、堅物のルイスがいるのですから。 「そうなんだよナ。だから、その事ト、大会の計画についテ、ちょっとあとでネスさんと相談しに行ってイイカ?」 「え? リュメルはわかるけど、ネスさん?」 予想外の名前に、ロレンソも驚きます。 そういえば、先ほど意味ありげなサインを送っていましたし、ルイスを積極的に宥めたのも彼です。 「まあ、わかった。あとで時間あるときに来てくれ」 「サンキュー! んじゃ、あとでナ!」 そういうと、リュメルは脱衣所を出ていきました。 さっさと体や髪を洗って上がると、脱衣所にはまだ一班は来ていませんでした。 時間的にそろそろ来ないと危ないのにと、首を傾げながら服を着て、生活棟の四階へ階段を上っていると、喧嘩の声が聞こえてきました。 オットマーとロレンソ慌てて走り出しました。リノとシュメルツも遅れながら彼らの後を追いました。 廊下には声を聞きつけた四八一分隊が全員出て来ている上に、怒鳴り声が入り乱れていて、誰と誰が喧嘩をしているのかわかりません。 「誰と誰?」 オットマーが聞くと、ネスが答えました。 「ルカとルイスですよ」 「あー、あの二人この前から険悪だよね」 ちょっと納得してうなずくと、ロレンソとオットマーは喧嘩の中心に向かっていきます。 誰が決めたわけでも、自分たちが宣言源したわけでもありませんが、喧嘩ごとを止めるのは彼らの役割なのです。 リノが人と人の隙間から垣間見えたのは、ルカとルイスがそれぞれハルとアベルに羽交い絞めにされて抑えられているところでした。 力ではかなわないらしく、足や手をばたつかせながらも、お互い近づくことはできません。 少々の取っ組み合いもしたのでしょうか。 いつもピシッとしたルイスの髪は乱れ、お互いの顔にはひっかき傷や、後で青くなりそうな赤い殴った跡、そこらへんには投げられたらしき物が散乱しています。 「くそ、邪魔すんなてめえら!」 「いい加減にしなさい! ちょっとは頭を冷やしたらどうですかルカ二士!」 ルカは完全にキレているようですが、ルイスはまだいくらか冷静さを持ち合わせているようです。 「は? なんで俺が?」 「貴方が一人で騒いでるだけなんですよ! 一体何がそんなに――」 「ふざけんじゃねえぞ! おら、かかってこいよ! 真面目君!」 ルカが挑発すると、ルイスはカッと顔を赤くしてアベルの拘束から抜け出しました。 あのアベルの拘束から抜け出せたのは火事場の馬鹿力というやつでしょうか。 とにかく、アベルは慌ててまたルイスを捕まえようとしましたが、その前に、ルカの顔に拳を一つ叩き込みました。 「っのやろ……! 放しやがれハル!」 「ルカ。大丈夫……!?」 「ルイス、ちょ、落ち着けって。誰か手伝ってくれ!」 「なんなんですか! 真面目でそんなに悪いんですか! 自分は、僕は、ただ、エルガー二尉のように、叔父さんのようになりたくて……!」 金切声にも近い声で叫ぶルイス。 しかし、それを遮るように明るい声が響きました。 「そういやさあ!」 その場にいた全員が一斉に振り返りました。 声を出したはオットマーです。 こんな状況で当事者を含め、注目を集められるのは、彼だからでしょう。 「ロレンソはなんで遅れたの?」 「え、あ。俺? ……俺はちょっと昼寝しててさ、気が付いたら時間ぎりぎりで、遅れちゃったんだ」 「ああ、お前らしいな」 カラカラと笑うオットマー。 彼はいつも明るくて、面倒見も良く、しかも顔も良く、背も高いです。 これで性格もいいんだから、恨むに恨めません。 今だって、ギスギスして喧嘩になりそうだった彼らの気を引いてなあなあにすませようと、わざと話題を変えたのです。 その作戦にシュメルツも乗っかりました。 「フッ、貴様は結構抜けているからな。道にもよく迷ってはぐれるし、そのうち人生に迷わぬことだ、な」 「そうかな、割と迷ってないと思うんだけどなあ、俺」 「迷惑かけたね、リノ、シュメルツ、それにオットマー」 「ま、俺らもお前に迷惑かける事多いし、お互い様だろ。水臭いこと言うなよー」 「ルイスも、皆も迷惑かけたな。すまない」 ロレンソはルイスの方を向きなおして軽く頭を下げました。 連帯責任になるチームのみんなに謝るのはわかるが、ルイスに謝る必要性は全くないだろうに。 とルカは自分のことじゃないのにムッとしました。 そのむっとしたのに任せて、また怒鳴ってしまおうとしたその時。 「何の騒ぎだ」 さすがにあんなに騒いでいたため、気付かれたのでしょう。 エルガー二尉とローイ三曹がそこにいました。慌ててその場にいた全員が敬礼をします。 「なおれ。……ルカ二士、ルイス二士」 いかにも喧嘩しました、という姿のルカとルイスを呼びつけました。 二人は前に出ます。 「……喧嘩か」 静かにそう問われましたが、二人ともだんまりです。 リノは一人カタカタと震えていました。 自分が怒られているわけでもないのに、言い訳を頭の中で言い連ねます。 ルカが階段から落ちそうになって、助けようとしたルイスが一緒に落ちたんです。ええ。危なかったです。喧嘩ではありません。 ですが、その意味の内言い訳さえも遮って、エルガー二尉は同じ質問を繰り返しました。 「喧嘩かと聞いている!」 「はい!」 「そうです!」 その怒号に、ルカとルイスもたまらず返事をしました。 エルガー二尉は声のトーンを戻し、次の質問をしました。 「理由は」 「……」 今度も二人ともだんまりでした。 「ローイ三曹、お前の受け持つ分隊のことだ。後は任せる」 「はい。二人とも、医務室に行ってから、私のところへ来てください」 「わかりました」 ルカとルイスが声をそろえると、ローイ三曹とエルガー二尉は行ってしまいました。 「くそ、なにが"良い日"だ。最低な一日だった」 ルカが悪態をつきながら階段を下りていきます。遅れてルイスも。 その背中を見送りながらリノは思いました。 最低は自分だと。 さっき頭に浮かんでしまったのは、連帯責任にならなくてよかった、ということ。 仲間の身を案じるものでも何でもなく、ただ、自分の事。 それにどうしようもなく自己嫌悪を抱きました。 そして、もう一つ、自分たちの中に嘘つきがいたということ。 一体、なんでそんな嘘をついたのか。 まさか、あの人がスパイで……。 そんなことを考えてしまう自分をさらに嫌悪します。 やはりリノにはそんなことを誰かに相談することもできませんでした。 結局その事は心の奥底に仕舞い、忘れたふりをしました。 それが一番、誰も、自分も傷つかないから。 やっぱり自分は卑怯者だと思いながら、忘れたふりをしたそれは、次の日の朝には本当に記憶の隅に追いやられてしまっていました。

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