第二話 第一章 「じゃあなんだよその顔は! ……じゃないお面は!」
ほんの一瞬のことだった。
瞬きをした瞬間、アルトは空ではなく板張りの天井を見上げていた。
確かにさっきまで路地を走っていたはずなのに、いつの間にか屋内に移動してなにやら硬い椅子に寝かされていのだ。
ついにテレポート魔法を使えるようにでもなったのか
と自嘲的な冗談を考えてしまい、思わず笑っていると、釣り目気味の緑色の瞳がアルトと天井の間に割り込んできた。
顔をしかめ、かすれた声で唸り、起き上がるそぶりを見せると、緑の瞳をした女の子は一歩下がった。
半身のみ起き上がってあたりを見回す。
小綺麗な板張りの天井と壁。
大きな窓。
明らかに宿屋の内装ではないし、昨日泊らせられたシェアハウスでもなかった。
少ない情報しか得られなかったが、ぼーっとしたアルトの頭は、案外あっさり正解の記憶を引っ張り出してくれた。
「……役所か、ここ」
「ピンポーン!」
正解したところで賞品があるわけではないため、笑顔を浮かべる緑の瞳の少女とは対照的にアルトは大して嬉しそうな顔はしなかった。
アルトが役所を訪れたのは片手で余るほどの回数しかない。
役所にいると分かったのも奇跡に近い。
だから何の目的があってこんなところに連れてこられたのかはわからない。
宿屋に連れ戻すのではなく、わざわざ役所を選んだ理由が見当すらつかない。
それが少し怖かった。一体何をされるのだろうか。
「……ミィレが私をここに連れてきたのか……?」
「まっさかあ、このか細い腕でアルトを運べるわけないでしょー」
確かにミィレの腕は折れてしまいそうなほどか細い。
それは見掛け倒しではなく、人間を一人で運ぶなんて腕力は持ち合わせていない。
「そこにジェンとソフィアもいるよ」
腕同様細い指が指す先には、和服と軍服の背中があった。
どうやらカウンター越しに誰かと話しているらしい。
それを見ながらアルトはぽつりとつぶやく。
「……夢じゃなかったのか」
ミィレは首をかしげた。
金髪のツインテールを結っているモノクロのリボンが揺れる。
「ちなみに、どれが夢だと思ったの?」
「全部」
即答した。
正確には"思った"ではなく"思いたかった"のだが、その訂正をする前に、ミィレは事実を告げた。
「残念ながら、アルトが禁書を逃がしちゃったのも、ゴリリンゴ持ってかれたのもぜーんぶ本当にあったことなんだよねー」
夢だったらよかったのにというポイントとは微妙にずれていたうえに、最後の言葉は少しだけ怒りがこもっていた。
アルトは彼女がゴリリンゴの頭を食べたがっていたのを思い出す。好物なのだろうか。
結構根に持っているらしいが、それが没収されたのは彼女のせいではない。
アルトは昨日、彼女たちの禁書捕獲騒ぎに巻き込まれ、結果として禁書を逃がしてしまい、それを脅しに仲間にさせられるという事態に陥っていた。
借りていた宿屋の部屋さえも強制的に彼女たちの住んでいるシェアハウスに移動させられ、
アルトは巻き込まれるどころか、巻き取られかけていた。
だんだんと蘇る昨日の記憶に精神的な頭痛を感じ、アルトは右手で額を抑えた。
同時に今日の朝の記憶も鎖のように連なって呼び起こされる。
昨日のことが受け入れられなかったアルトは起きてすぐ、必要な道具だけを持って窓から逃走を図ったが、
すぐに気付かれてしまった。
無我夢中で逃げながら、幼少期にした兄との追いかけっこを思い出した。
良い思い出ではなかったが、その記憶は大いに役立ち、あとすこしで逃げおおせるかもしれないとさえ思った。
確かにその時も後ろから追われていたが、動きが素早いミィレでさえ、まだはるか後方にいた。
はずだった。
どうやって気絶させられたかのは覚えていない。
いつの間にかこんなところに連れてこられていた。
ただ、耳をつんざくものすごい轟音を聞いた気がする。
ズキズキする頭を触ったらたんこぶができていたので、頭を打ったらしいということだけはわかった。
不意打ちで脳が揺れるほど殴られたのだろうか。
ちょっと逃げようとしたらこの仕打ちだ。
寝起きのぼんやりしたこの頭じゃ、先ほどよりもっと簡単につかまってしまい、もっともっとひどい目に合わせられるかもしれない。
記憶の中のミィレではなく、
今、目の前にいるミィレはアルトの腕をひっぱり、立ち上がるように促した。
やはり細くて白い腕だった。
「さ、そんなことより。アルト、こっちこっち」
引かれるがままに、アルトはしぶしぶ立ち上がると、ジェンとソフィアの方へと連れていかれた。
軍服と、袴姿の二人は、後ろから見ても異様な組み合わせだ。
ジェンは三人の中じゃ一番高く、ソフィアは一番背が低いだろう。
それでもそんなに身長の差はない。
女性だということを差し引いても、そこまで平均身長が高いとは言えないメンバーだな。
と考えながらひっぱられるままに近づいていくと、彼女たちが話している内容が少し聞こえてきた。
「わかった、じゃあ見つけたら捕まえりゃいいんだな?」
「ええ、そしたら多少なりともお礼が支払われるわ」
二人のほかにもう一人聞きなれない声が混じっている。
「生死は問わないのね?」
「殺しはダメだ」
「わかってるわよ」
仕事の話でもしているのだろうか。
それが分かる会話を聞く前に、二人はアルトとミィレに気付いた。
「あら、アルト。気が付いたの」
「ああ、ソフィアおはよう」
「……? おはよう」
のんきに挨拶するアルトにソフィアは不思議そうな顔をしながらも挨拶を返した。
やはり覚えていないらしい。
と、アルトは忍び笑いをする。
先ほど彼女は完全に寝ぼけた状態でアルトを追いかけてきていたのだ。
路地で対峙したときなど、アルトよりも眠気と戦っていた。
フラフラした足取りは一瞬酔拳のようななにかを彷彿とさせたが、それは完全に見掛け倒しで、
そこに捨てられていた布団に一度突っ込んだが最後、幸せそうな寝息を立てていた。
そのおかげで一度は逃げ延びられたのだ。
「ったく、手間かけさせやがって」
悪態をつくジェンは相変わらずのお面をつけている。
まだ慣れていない彼女のお面は、薄暗い早朝に見るには本当に心臓に悪かった。
足の速いミィレに気を取られていると、予想外のところからジェンが出てきて、何度奇怪な悲鳴を上げたことか。
今頃あのあたりで、不審者騒ぎか、もしくは幽霊の噂でも流されているのではなかろうか。
朝の逃走劇を思い出しながら顔をしかめているアルトを横目に、
ソフィアは手の平で示しながら、カウンターの向こう側に座っている女性にアルトを紹介した。
座っている位置からしても役所の職員だろう。
「サクさん、彼女がアルトよ」
「貴女が新人さんね」
その黒い目はまっすぐとアルトを見ている。
サラサラなショートカットの髪の下には友好的な笑顔があった。
愛想笑いではなく、彼女の気さくでおおらかな性格が反映された笑顔だ。
「私はサクといいます。役所で冒険者のみんなのサポートをしてるの。よろしくね」
手を差し出されるまま、握手をした。
アルトは力加減に注意する。
寝起きの時と酔っぱらった時ほど、彼女は力加減を間違えるのだ。
できれば、初対面の無害と判断できる相手の手を握りつぶしたくはない。
「よろしく……。あの、すいませんが、私こいつらの仲間じゃないです」
握手を終えると、勘違いで事が進んでしまわないように、即座に訂正を入れる。
今度は遮られることもなかった。サクが首をかしげる。
「あら、そう聞いてたけど?」
「嘘です」
アルトがきっぱりと言うと、他の三人が抗議の声を上げた。
「そんなことないもん! ちゃんと仲間になるって言ったじゃない」
「そうだそうだ、嘘つきはそっちだろ」
「言った覚えはない」
またもや断言するアルト。
確かに、彼女は口に出してはいない。
これに気付いたのは今朝。
どうにか昨日のことをなかったことにできないかと必死に考え、思い出したのだ。
自分の返答を。
手伝うかどうか、という問いにうなずいただけだ。
手伝うだけなら仲間になる必要もない。
そもそも仲間になるなんてそれらしい言葉を一言も言ってはいない。
そんな屁理屈をつらつらとアルトが述べると、約束した時のことを覚えていたらしいソフィアが頷いた。
「ええ、確かに。口に出してはないわね」
「ほらな」
勝ち誇ったようにアルトが笑うと、ミィレがむくれた。
こんな詭弁では納得いかないのも当然だ。
自分でも諦めが悪いことはわかっていた。
それでも自分の日常を取り戻すための悪あがきをしないわけにはいかなかった。
自分のことでいっぱいいっぱいの彼女に不必要に他人と関わる余裕はなく、
特にトラブルを呼ぶどころか作ってしまいそうな連中と関わるなんてもっての他だった。
そんな時間があるのなら、やることはいくらでもあるのだ。
その時間を守るための裏技があるのなら、それの効果が保証されなくても使う価値はある。
だが、その卑怯に近い裏技が、ミィレにとって面白いはずがない。
「ええー、ソフィア、アルトが仲間になってほしくないのぉ?」
ミィレの問いにソフィアはちょっと考えるそぶりを見せた。
「仲間より敵になってみたいかも。強いし」
「それでもいいけど、おもちゃにできそうじゃん?」
「まぁ、わっちとは相性が悪そうだけど、ツッコミとしては使えそうだよな」
「お前らなあ……」
自分の批評を言われたい放題言われ、頭を抱えるアルト。
仲間というより、良い暇つぶしのおもちゃに使われそうだ。
今朝逃げた彼女の行動は間違っていなかったらしい。
きっと本能が逃げろと言っていたのだろう。
これ以上この連中と一緒にいたら頭痛持ちになってしまうとでも思ったのか、アルトはさっさとその場から立ち去る決意をした。
その決意を周りにもわかってもらうため、腰に手を当て、高らかに宣言する。
「とにかく! 私はお前らの仲間になるつもりはない!」
「なによそれぇ」
「往生際が悪いぞ」
不満そうにブーブーと文句を言うミィレとジェン。
ソフィアは何も言わないが、なにやら視線で訴えてくる。
なんだかんだ言って、彼女もアルトを仲間にすることを歓迎していたらしい。
そんな彼女たちを置いて、彼女が寝ていた椅子の近くに置かれていたリュックをむんずと掴むと、どすどすと足音を鳴らしながら役所の外に出て行った。
ドアが閉まる前にミィレが顔を出し、外へ歩いていくアルトに声をかける。
「ほんとに嫌なの? 今なら三食昼寝付き、しかもこんなかわいいミィレちゃんもついてくるのに!」
「いらんわ!」
条件はまぁまぁ良かったが、最後のおまけが余計だった。
哀訴するミィレだったが、アルトは譲歩する様子をあまり見せなかった。
昨日の騒動を思い出しても、アルトの心労が増えるだけで、一緒にいると厄介事に巻き込まれる未来しか見えない。
そもそも彼女たちは仲間ではなく、ただの道連れを欲しているのだろうとアルトは睨んでいた。
おそらく人数が多くなれば自分たちの負担が減るという魂胆なのではないだろうかとでも考えているのだと。
ジェンとソフィアも顔を出した。
「なー、いいだろ? 冒険者は結構儲かるぜ。人数いると、受けられるクエストも増えるし」
「……嫌だつってんだろ!」
「今間があったわね」
ジェンの言葉に思わず反応してしまったことを、ソフィアが冷静に指摘する。
お金が必要ないかというと嘘になる。
アルトは嘘の類が苦手だ。
「う、うるせえ! いいか、もう一度言うからよく聞いとけよ!」
「あ、アルト……」
ソフィアが何かを言いかけたが、アルトはそれを無視する。
仲間になる気がこれっぽっちもない以上、これ以上口を挟まれても時間の無駄なだけだ。
「私はな、絶対にお前らの仲間には……」
アルトが改めて宣言しかけたそこにちょうど馬車が通りかかった。
急いでいたのだろうか、すごい勢いで走り抜けたその馬車の車輪は、昨日の雨でできた水たまりを跳ねさせる。
茶色の土と水の混合物がアルトを容赦なく襲った。
頭から大量の泥をかぶったアルトはまるで、雨の日に土からはい出てきたゾンビのようだった。
ぼたぼたと泥を滴らせる姿を見て噴き出し、続いて笑い出す声をアルトはにらみつけた。
「何がおかしいんだよ! ジェン!」
「おかしくねえよ、可哀想だなと思ってな」
「じゃあなんだよその顔は! ……じゃないお面は!」
可哀想に思っている割にはこらえる様子も我慢する様子もなく笑うジェンに、アルトは詰め寄った。泥だらけのアルトの顔がアップになったことにより、その笑いは大きくなった。
「お面はお面だ。それ以上でもそれ以下でもない。ってか近づくなよ、腹よじれる」
「可哀想だと思ってる人間を笑うんじゃねえよ!」
思わず胸倉をつかもうとしたちょうどその時、水が横から飛んできた。
今度は泥など一切混じっていない透明な水だった。
かけたのはソフィアだ。
空のバケツを持っている。
「大丈夫? 忠告しようとはしたんだけど……」
ソフィアが口を挟もうとしたのは、馬車のことを知らせようとしてくれていたかららしい。
どうやら話を聞く気がないアルトに忠告は無駄だと分かってすぐに次の行動に移ったようだ。
つまり、事後処理の準備として井戸に水を汲みに行ってくれたのだ。
素早い対応でありがたかったが、できればバケツのまま水をくれた方がずっとありがたかった。
「……ああ、まあ」
水のおかげでクールダウンしたらしく、ジェンから離れ、髪と上着を絞った。
おかげで泥は落ちたが水浸しになってしまった。
せめて太陽が出ていてくれれば乾きも早かっただろうに、残念ながら空はまだ昨日の天気を引きずって、分厚い雨雲が空を独占している。
乾くのには時間がかかるだろう。
「怪我してない?」
心配そうにミィレが顔を覗き込んできた。
ソフィアの忠告を無視した結果の自業自得だったため、バツが悪かったアルトは大丈夫だとそっけなく言いながら肌についた泥をぬぐう。
やはり水を一かぶりしただけでは全部は洗い落とせなかったらしい。
髪に残っている泥はすでに固まりつつあった。
いっそ固めて落とした方がいいのか考えていると、ミィレがさらにしつこく詰め寄ってきた。
「ほんとに大丈夫? 怪我は? してないの? かすり傷も?」
「大丈夫だ。体は丈夫な方だからな。これくらいなんともない」
おそらく自分が引き留めたからこうなったと、罪悪感だの、反省だのをしているのだろうと思ったアルトは笑って答えた。
案外可愛げがあるなとさえ思った。
だが、残念なことにまだアルトは彼女たちの性格を把握しきれていない。
もう少し、せめてあと一週間分くらい彼女たちと一緒にいた時間が長ければ、彼女の言動が心配や罪悪感から来たものではないと見抜けただろう。
ミィレはほっとするどころか、心底残念そうな顔をした。
「つぇー、怪我してないのか。この薬使ってみたかったのになー」
そう言ってどこから出したのか、濃いピンク色の液体を入れた小瓶を取り出した。
アルトの顔が引きつる。
「……何の薬だ? それ」
「え? えーと、傷薬的な?」
視線をそらすことはなかったが、明らかに嘘だとわかった。
どう見ても傷薬ではない。回復の薬がそんな反自然色なわけがない。
偏見だと言われてもしょうがないが、アルトがそう思うのも無理がないほどの色。
まさにショッキングなピンク色だったのだ。
ミィレはその薬をちらっと見てから、ぐっと親指を立てた。
「うん、だいじょぶだいじょぶ。多分死んだりしないやつ」
「絶対嘘だろ!」
怪我していなくてよかったと、自分の体が丈夫でよかったとアルトは心底思った。
そうでなければ死にはしなくてもとんでもない薬を使われて得体のしれないことになっていたかもしれない。