第一話「縁の眼鏡には霧が降る」

ルカは、朝目が覚めると、時計を見るよりも、起き上がるよりも先に眼鏡を探します。 それがなければ、まだ太陽も起きていない薄暗い部屋は、ただの灰色のまだら模様にしか見えないのです。 目が健康で視力が悪くなければ不必要なその一挙動が面倒だという人もいますが、 彼は特にそう思ったことはありませんでした。 上半身だけを持ち上げて、部屋の中を見渡しました。 二段ベッドが二つ、向かい合うように置かれ、あまった隙間に棚付きの机が四つ置かれています。 年頃の男の子四人が共同生活しているにしては小綺麗に整頓された部屋。いつも通りの朝です。   一般に流通している物より少し低い二段ベッドの上の段に頭をぶつけないように抜け出すと、大きく伸びをして体をポキポキと鳴らします。 随分慣れたとはいえ、やはり支給品のベッドマットは固くて寝にくいのです。 「ルカ、おはよ」   金色の長い前髪を後ろでくくっていると、囁くような声が上から落ちてきました。 部屋の外も中も、今はシンとしていますのでその小声はルカに十分聞こえました。 見上ると、備え付けのはしごで降りてこようとしている派手な赤髪の青年がいます。 「おはよう、リクト」 同じくらいの声のボリュームで返すと、リクトはニコリと人懐こい笑みを浮かべました。 あと数分で起床のラッパが鳴ります。 本来、それまでは活動してはいけないのが決まりなのですが、その音と同時に起きたのでは到底間に合いません。ですので、その決まりは完全な建前と化していて、大抵の人は彼らのように少しだけ早起きをして軽く支度をします。 暗黙の了解があるとはいえ、規律は規律。起きていることが分からないように、こうして電気も付けず、小声で話をしているのです。   二人が無言で支度をしていると、至近距離から挨拶をされました。 「おはよう、ルカ、リクト」   彼に全く気付いていなかったルカとリクトは悲鳴を上げかけます。それをすんでのところで飲み込みました。 「びっくりした。おはよ、ハル」 「おはよう。今日は頭ぶつけなかったのか」   ルカの言葉にハルはこくりとうなずきます。 彼は同期の中でも背が高く、体が大きい方です。そのせいなのかは分かりませんが、毎朝起きるたびに二段ベッドの上の段に頭を打ち付けていました。ですが、最近になって十日に一回くらいはぶつける直前で止まるということを覚えたようで、こうして静かに起きてはルカとリクトを驚かせています。 「次ハルがいつ頭ぶつけないかで賭けようか」 「いいね。じゃあ俺はピッタリ十日後だと思う」 「えー、二人ともひど――」   そんなくだらない雑談の途中で、高らかなラッパの音が鳴り響きました。鼓膜をビリビリと揺さぶるような大音量。 起床の合図です。 会話の途中の言葉も中途半端に発音させっぱなしですが、そんなこと誰も気にしません。彼らは示し合わせたように一斉に口を閉じ、廊下へと続くドアをあけます。そのまま飛び出すと、正面には栗色の髪をひっつめている女性と、金髪の男性が仁王立ちしていました。 ルカ達の部屋の左側にある二つのドアも開き、そこからも何人か飛び出してきます。ルカ達を含めた彼らは扉を背にして一列横隊並び始めました。 その様子を仁王立ちの女性と男性は表情をピクリともさせずに、半ば睨みつけるように見守ります。   バタバタという足音が止むのを見計らって、女性が声を張り上げました。 「点呼ッ!」 そこが声の響く廊下だからという事を差し引いても、その音量は先ほどのラッパといい勝負です。 その鋭い声に押されるように、一番端に並んだルカは「一!」と叫びました。続いて隣にいたリクトが「二」と続いていき、最後は、ルカに最も遠い場所に並んでいたロレンソが最後の声を上げます。 「十一! 一欠!」   一瞬、その場が静まり返ります。   ルカは最後に聞いたロレンソの言葉を耳で何度かこだまさせてやっと意味を理解しました。 彼らが所属する四八一分隊は三班構成。一班は四人なので、全員で十二人いるはずなのです。 つまり、誰かひとり足りない。 ルカ達に向き合っている男性は表情を変えませんが、女性の眉間には皺が寄り険しくなります。 他の面々もざわつき始めます。 ルカは慌てて自分の班をチェックしました。そして、隣にいる二人を見て、脳内に朝からの行動が一瞬にしてよみがえり、血の気が引きます。   すぐさま部屋に戻り、ハルの寝ていたベッドの上の段を見上げると、案の定、逞しい手が一本突き出ていました。いびきも聞こえます。 あのラッパや号令の中、よく寝られるものだと、呆れを通り越して感心してしまいました。 「おい、アベル! 朝だ、起きろ!」   呼びかけても、むにゃむにゃと明らかな寝言のようなものが聞こえるばかりで、起きる気配はありません。  ルカは舌打ちをしながら、ベッドのはしごを登ろうとしましたが、それを制されました。止めたのは、あの号令をかけた女性です。 「じ、ジゼル伍長、あの……」 ルカがしどろもどろになってしようとした言い訳さえも遮って、ジゼル伍長は静かに命じました。 「ルカ二士、床に毛布を敷け」 彼女が何をしようとしているのか何となく察しがついたルカは、自分の分だけではなくハルの布団も床に降ろしました。 そしてそっとドアまで下がります。 ドアには、リクトとハルを先頭に、何人もドアに集まってきていました。   野次馬に見守られながら、ジゼル伍長は突き出ている腕を引っぱります。ずるずると、薄い水色の髪が現れ始めました。丁度、首筋が出たあたりで目を覚ましたのか、「んぁ?」と間の抜けた声が漏れた瞬間。 ジゼル伍長は、アベルの襟首と腕をつかみ、彼を一気に引きずり落しました。 ドシンと言う音とともに、少し床が揺れます。 ジゼルは手をぱっと離すと、冷静に自分の服の乱れを直しながらアベルを見下ろします。 「アベル二士、起床の時間だ。そんなに寝ていたいのなら、射撃の時間に寝ていてもいいぞ。ただし、的を背負ってもらうがな」   真顔で放ったその言葉は、おそらく冗談ではありません。彼女なら本当にやるでしょう。それを理解しているアベルは、投げられっぱなしの恰好のまま、顔を引きつらせました。 「い、いえ結構です……。も、申し訳ありませんでした」   うまく勢いを殺したのでしょう。アベルは落とされた痛みよりも、驚きで目を白黒させています。心得のない人が同じことをやれば、彼の首は折れていたか、少なくとも何らかの怪我は免れなかったはずです。   そのあとは、何事もなかったかのようにアベルを加えた点呼を取り直し、各班で体調チェックを終わらせると、一時的解散になりました。 ジゼル伍長達が立ち去ると、まだパジャマ代わりのジャージだったアベルは、慌てて着替えてから、ルカ達と共に朝礼の為に中庭へ向かいます。 「アベル、朝礼だから、前詰めないと」 「あ、そっか。あぶねー」   ハルに指摘され、アベルは開けっ放しだった上着の前を詰めます。 彼はキチンと規定通りに着るのが嫌いらしく、いつもだらしなく着崩しているのです。ルカもそれを見ながら自分の身なりを整えなおしました。 「いやー、ふとんが吹っ飛んだかと思ったぜ」 「二点。こっちはお前のいびきを聞いて血の気が引いたぜ。昨日夜更かしでもしたのか?」   アベルは首を横に振りました。いくら彼がルーズでだらしなくても、寝坊の常習犯ではありません。そもそもここで暮らしていたら否でも生活習慣が整うので、寝坊する者が珍しいくらいです。 「いつもはハルの頭打つ揺れで起きれるんだけど……疲れてたのかな」 「ああ、だからか。今日ハル頭ぶつけなかったんだよね」 「えっ、じゃあそれが原因か!」 「え、そうなの? ごめんね、アベル」 「いや、ハル謝らなくていいぞ。人を目覚まし代わりにするなよな」 「へーい」 「ジゼル伍長に殺されなくてよかったね」 「怖いこと言うなよ、リクト……」 ルカ・イーゲルは、今年兵士になったばかりの男の子です。 彼の生まれ育ったカロカイは、軍事国と名高く、誰しも一度は兵士になることを夢見ます。 ルカも半ば無意識に軍人を目指し、こうして晴れて灰色の軍服を着ることができました。今はまだ訓練兵で、同期の仲間たちと一緒に朝から晩まで、へとへとになるまで勉強と訓練をこなしています。   彼らが寝起きし、生活をしているこの訓練のための施設は、もともと武器庫か何かを何十年も前に改装したものでした。広い運動場、射撃室、座学の教室の他、食堂や生活部屋、図書館など、個々の生活に必要な設備が最低限備わっています。どんな伝説級の兵士も皆ここで基礎の基礎を叩き込まれたとか叩き込まれていないとか。 「貴様らがこの施設にきて、ちょうど五ケ月になる」 起きてすぐは薄暗かった空は、朝礼が半ばに差し掛かる頃には、もう太陽はずいぶん高く上がって明るくなっていました。 その太陽を背に演説をする黒髪の男性は、今年の訓練兵小隊の隊長の、エルガー・グランツ二尉です。 若いながらも、優秀な兵士らしく、ルカも入隊する前から顔だけはなんとなく見たことがありました。どちらかというと軍の本部にいることが多く、こうして朝礼に顔を出すのも週に一度ほどです。 「少しは使える兵士になったと期待している――」 まだ起きたばかりにもかかわらず太陽は今日も元気なようで、気温がぐんぐん上昇していきます。 ですが、エルガー二尉は時折くいっと眼鏡のブリッジを中指で押し上げる以外は、真直ぐな姿勢でふらつきもしません。 ルカはそんな彼の姿を見ながら思いました。 嗚呼、やっぱりあの眼鏡格好良いな、と。 一旦そう思い始めるともう止まりません。 エルガー二尉の言葉はどんどん遠くなり、さらには周りの景色が意識の外に放り出され始めます。 そしてついに、エルガー二尉本人さえぼやけ始め、眼鏡だけがくっきりとした輪郭を保つだけになりました。 それはまるで、眼鏡をはずした時のようなぼんやりとした景色の中に眼鏡だけが浮かんでいるという、奇怪なルカと眼鏡だけの世界が形成されつつあるようでした。 「――である。さらにもうすぐ前線基地への楽しい楽しい見学会もある。せいぜい流れ弾が当たらないよう祈っておくことだな。まあ、死ぬほど祈っても死んでいった輩は大勢いるが、気休め程度になるだろう。……以上だ」   ルカが眼鏡の世界に脳内トリップしている間に、いつのまにかエルガー二尉は話を終えていました。 マイクからから離れ始めたところで、ルカもやっとそれに気が付きます。あわてて周りに合わせて敬礼をしました。 「ああ、そうだ」   エルガー二尉は、思い出したように立ち止まり、こう付け加えました。 「この中にいるスパイに告げる。例年通り一人残らず全員キッチリあぶりだす為、今のうちに首を洗っておけ」   その声はマイク無しでも充分、後ろまで聞こえました。 訓練兵たちははポカンとしている間に、エルガー二尉は、何事もなかったかのように今度こそ壇上から降りてしまいました。 やがて、訓練兵達はざわつき始めます。この数か月、生活も厳しい訓練も乗り越えてきた仲間の中に、スパイがいる、と言われたのですから当たり前の反応でした。ルカも、今聞いたことが信じられません。 戸惑いの声には、誰かへ対しての明らかな疑いや悪意の声も混ざっていて、この状態が続くと下手をすれば喧嘩が起きてもおかしくありません。 そんな混乱している彼らを無理やり収めるように、毎朝恒例の体操のメロディーが鳴り始めました。 朝礼の後は、雨だろうが台風だろうが、この体操をやってきました。頭は混乱していようとも、習慣には逆らえず、訓練兵たちは全員体を動かし始めます。   体操が終わると、今度登壇したのは、今朝ジゼル伍長とともにルカ達を廊下で待ち構えていた金髪の男性です。 「ローイ三曹はなんて言うんだろ……」 「三曹がスパイ云々って言ったらもう……」 ヒソヒソ声があちこちから聞こえてきます。 ローイ三曹は、その声が聞こえているのか聞こえていないのかわかりませんが、淡々とマイクの高さを調整しています。 その行動は少しもったいぶっているようにも見えました。 「最近、消灯後に出歩いている者が多いようです。消灯後の不必要な行動は規律違反ですので、気を付けるように。では、これより朝食。その後〇七三〇(マルナナサンマル)より、通常通り訓練を行う。全員、時間厳守を肝に銘じてください。連絡は以上です。解散」   あっけなくローイ三曹が壇から下りると、拍子抜けした訓練兵たちは朝食の為に食堂へゾロゾロと列をなし始めました。 ここでは、列を形成することは基本中の基本です。どんな乱暴者も、粗雑な者も、割り込みをしようとする者はいません。それどころか、普段廊下を歩く時でさえ、四人一組の班で一列になって歩きます。 本日の朝ご飯は、野菜炒めに、目玉焼き、スライストマト、みそしると、ご飯に、きゅうりのお漬物でした。バランスの考えられた食事ですが、量がものすごく多いです。とにかく食べて体力と筋肉をつけろということなのでしょう。メニューによっては、女性兵士はもちろん、リクトやルカでさえ、食べるのに結構苦労するときがあります。 「アレ。なんかのジョークかな?」 自分の配膳を受け取り、席に着くや否やハルがポツリと切り出しました。他の三人もそれに反応します。皆、平静を装ってはいましたが、話し合いたくてウズウズしていたのでしょう。 途切れ途切れに聞こえてくる周りの会話も同じ話題で盛り上がっているようです。リクトは目玉焼きをつつきながらうなずきました。 「……この中にスパイがいる、かあ。確かに冗談の可能性あるかもね。突拍子なさすぎるもん」   ルカも早速、好物の部類に入るトマトを口に入れます。好きなものは最後に、なんて言っていたら時間も、お腹の限界もギリギリになって、味わうどころじゃなくなってしまうのです。 「あのエルガー二尉が? 真顔だったぞ」 「でも、確かに真顔で冗談か本気かわからない冗談言いそうじゃん。あの人」 「誰か”下手な洒落はやめなっしゃれ”って言ってやれよ」   ケタケタと笑いながらアベルが放った言葉に、三人は口をつぐみました。 「0点だバーカ。お前ブーメランだろその台詞」   呆れ気味にルカがツッコミを入れます。 アベル曰く”ハイレベルすぎて逆に低レベルに聞こえるギャグ”に対してのルカの点数付けは大体適当なものですが、とりあえず一桁台から脱する様子はないようです。   答えが出るはずもありませんが、その後も冗談を交えながら議論を交わしていると、同じ分隊の三班であるロレンソが近づいてきました。 「おはよう。えーと、はい、これ。ハルの分」 「ありがと、ロレンソ」   そういって、ハルに一通の手紙を渡しました。 家族や故郷の友人たちからの手紙は、朝食のこの時間にその日の係の班が配ります。今日はロレンソたちの班が当番のようです。 「こっちは、ルカね。ここ置いとくよ」 「お。俺も? サンキュー」   ルカが食べるのに忙しそうなのを認めると、ロレンソは机に手紙を置き、次の人の所へ行ってしまいました。 「二人とも兄弟から?」 「うん。今日の訓練の後に読もうっと」 ハルは嬉しそうに封筒を傍らに置きました。 「相変わらず分厚いなあ。俺だったら読んでるうちに寝ちまうよ」   アベルが指摘した通り、ハルの手紙は封筒にパンパンに入っています。ハルは兄弟が多く、その一人一人が綴った手紙をまとめて入れてあるため、毎回ちょっとした小説並みの文章量が送られてくるのです。彼はそれを辛い訓練の後に、自分へのご褒美にしているようです。 新しいご褒美が来てほくほくとした表情を見せながら、ルカに聞きました。 「ルカは妹さんから?」 ルカは封筒を一瞥して宛名と差出人を確認するとうなずきました。 封蝋に使ってあるクスの花のスタンプは、間違いなくルカがこの訓練施設に入る前になけなしの金でかってあげたものです。 「まったく、最近お袋に似てきてかなわねーよ。歯磨いてる? とか、風邪ひいてない? とか。お前よりよっぽど健康的な生活してるっつーの」 悪態をつきながらも、ルカの顔は嬉しそうです。なんだかんだで家族からの手紙はうれしいのでしょう。彼がたまにする妹の話を聞く限り、それなりに仲のいい兄妹のようです。実際、ハルほどしょっちゅうでなくとも、手紙のやり取りをするくらいは仲がいいようです。 「ねー、写真くらい見せてよ。カワイイ? やっぱ眼鏡掛けてるの?」   となりに座っているリクトがすり寄ると、ルカはすり寄ってこられた分だけ離れました。ついでに封筒にも蓋をするように手のひらを乗せて一緒に遠ざかります。 「カワイイから見せねーよ。特にお前には」 「えー、なんでさー」 「だってお前、兵士になった理由行ってみ?」   ルカが言うと、リクトはこぶしを握りしめて高らかに答えました。 「モテたかったから!」 「ほらみろ! だからお前みたいな女ったらしに妹は見せねーし、会わせねー」 「そんな。照れるじゃん」 「褒めてねーっての」 「ルカってシスコンなの?」 「ばぁか。ちげーよ。まかり間違って、お前らみたいなのから”お義兄さん”って呼ばれるようなことになりたくないだけだ」 「別に妹ちゃん狙いとは限らないでしょ。経由して友達紹介してもらいたいだけかもよ。てゆーか、彼女いないのはみんな一緒でしょ?女の子と仲良くなりたいのは俺だけじゃないよ。出会い、欲しいでしょ」 「そりゃ、まあ」   ルカはもごもごと否定も肯定もしません。確かに、彼も思春期の真っただ中で、出会いとか、恋とかそういうのに憧れています。ルカの様子を見て、リクトはニヤーと笑いました。 「あー、ゴメンゴメン。ルカには出会いとかいらなかったね。エリーナちゃんがいるもんね」 「ばっ……! ちげーって!」   リクトは後ろの方をチラリと見ます。ルカもつられてその方向を見ました。 視線の先には同じ四八一分隊の第二班が食事をとっています。その中に一人、薄紫色の髪を一つに結った笑顔の女の子、エリーナが座っていました。 彼女は、四八一分隊の同期には一人だけ女の子の隊員です。気取らない優しくしっかりした性格から、この分隊の、いえ、訓練小隊マドンナ的なポジションに違和感なく収まっています。頭がよく美人で、誰にでも優しい、まさに高嶺の花。 見られていることに気づいたのか、エリーナがふと視線をこちらに向けました。ルカは視線が合ってしまう前に自分の配膳に視線を戻します。 「……とにかく! 妹には会わせねーし紹介しねーからな!」   ちぇ、といいつつもそこまで執着を見せる様子はなく、リクトは引き下がりました。もともと本気ではなかったのでしょう。 話題は今日の訓練内容に移ります。 ルカはそれを聞きながら手紙をポケットにねじ込みました。封筒がちょっとくしゃっとなった感触を指に感じながら食事を続けていると、まわりのおしゃべりの声が少し静かになりました。立ち上がるような音も聞こえてきます。 異変に気づいてルカが顔を上げると、なんと食堂の入り口にジゼル伍長がいらっしゃいました。 「気にするな。食事を続けろ」   このガヤガヤした場所でも凛と通る声が響くと、かえって周りは静かになりました。 カツ、カツ、と空間を切り裂くようなヒールが鳴り響きます。 冷静沈着で、冷酷、冷淡。 冷たいという言葉がこれほど似あう女性はいないでしょう。 容赦のないその性格やイメージのおかげで、訓練兵たちからは”鬼教官”と恐れられています。こうやって、一歩一歩歩く際になる、高いヒールの音だけで、震えあがります。 ルカたちは顔を寄せて声の大きさを落としました。 「なんで伍長がここに? いつもは上官用の食堂にいるってのに」 「彼女の性格からして、僕たちとコミュニケーションをとるためとも思えないね」 「ねえ、なんか、こっちに向かってきてない?」 「いや、そんなバナナ……」 アベルのくだらないダジャレに三人が呆れたところで、ジゼル伍長はやはり、ルカ達のテーブルの前で立ち止まりました。 おそるおそる見上げるとそこには、相変わらず無表情で冷たい赤色の瞳が彼らを見下ろしています。 さすがにこれを無視するわけにはいきません。ルカ達四人は立ち上がり、敬礼をしました。 「お、お疲れ様であります! ジゼル伍長!」 「なおれ」 とりあえず敬礼を下すことはできましたが、座ることは許可してくれないようでした。 周りからの視線がチクチクと痛みます。 なにより、先ほどの演説があった後です。ルカ達自身も、自分たちがスパイなんて容疑がかけられたんじゃないかと心のどこかでひやひやしています。 「貴様らは今から中庭の掃除をしてもらう」 ですが、課された罰はスパイにはあまりにも軽く、無実の彼らにはあまりにも重いものでした。 「な、なんで……で、ありますか?」   アベルがおそるおそる言うと、ジゼル伍長は冷淡な視線をアベルに向けました。 「まさか、今朝のことをもう忘れたとは言わせんぞ。アベル二士」   つまり、寝坊の罰のようです。 スパイ容疑でなかったと分かり、ルカ達はとりあえず肩の力を抜きます。他の分隊の訓練兵たちからも「なーんだ」という声が上がります。今朝ベッドから派手に落とされてちょっとした騒ぎになってたため、周知の事実だったのでしょう。 「終わり次第、訓練に戻れ。幸い一時限目は私の受け持ちの射撃訓練だ。気にせず存分に働いて来い」   やっとここでジゼル伍長は口の端を吊り上げました。ですが、それはニコッという擬音よりもニヤリという音が似合う笑顔です。 「……はい」 嫌だという返事ができるわけもなく、返事をすると、ジゼル伍長が彷徨のような怒鳴り声を放ちました。 「返事ではない! 復唱をしろ!」   鼓膜がビリビリします。その声に身を震わせながら、四人は口をあけました。 「訓練兵小隊第四八一分隊、一班! これより中庭の清掃へ向かいます!」   掛け声がなくともある程度声がそろうのも、訓練のたまものです。 よし、とばかりにうなずくジゼル伍長。そんな中、ハルが小さく手を上げました。 「あの」 「なんだ、ハル二士」 「ごはん、途中なのですが。これはどうしましょう。……捨てるのはもったいないし、なにより、兵士としてはあるまじき行為かと」   まだ朝食は始めたばかりだったため、半分以上残っています。確かにもったいないくらいの量で、彼の言うことももっともなのですが、今この空気で言うべきではないだろう、と他の三人は視線で訴えます。 ですが、残念ながらハルには伝わりません。   どんな怒号が飛んでくるかとヒヤヒヤしながら身を固くしていると、ジゼル伍長はふむ、と彼らのテーブルを見つめました。 「そうだな……」 どうやら奇跡的にハルの言うことを”聞く価値のある意見”だと受け取ってもらえたようです。 うまくいけば朝食くらいはゆっくり食べられるかもしれません。 執行猶予の判決を待っていると、近くで手が上がりました。 「ジゼル伍長! 提案があります!」   その声を聴いて、ルカは露骨に顔をしかめます。 ですが、そんなことは意に介さず、ジゼルはその声に反応しました。 「なんだ? ルイス二士」 ジゼル伍長が促すと、ルイスはすくっと立ち上がりました。 その立ち姿は見事なまでにまっすぐで、今朝のエルガー二尉を彷彿とさせます。 「自分たち、四八一分隊の残りの隊員で処理するというのはいかがでしょうか!」 「……は?」   彼の提案にルカは思わず声を漏らしました。 唖然としていると、その近くで次々と賛成の声が上がります。 「やっぱり、仲間の不始末は協力して処理しないといけませんからね」 「連帯責任がここのルールですし!」 「助け合わないト!」   いくらここの食事は量が多いとは言っても、やはり育ちざかりの男子となると、足りないという人が多いです。ですので、食が細い人の残した分は同じ分隊の有志が集まり、みんなで分け合うこともあります。そのルールにのっとっての提言でした。 次々と手を上げる仲間たちを見て、ルカ達一班は少し微笑みました。 「お前ら……」 そして、一転。キッと目を吊り上げます。 「ふざけんな! てめえらが食いたいだけだろ!」 「なにが連帯責任だ! だったらお前らも掃除手伝えバーカ!」 「うるせえ! それは自業自得だろ!」   やいのやいのと文句を言いあう四八一分隊。 入隊してすぐは全く知らない者同士だった彼らが、ここまで本音で言い合えるようになったのは、やはり共同生活や訓練のたまものなのでしょうか。少々感慨深いものがありますが、喧嘩としては低レベルで、度が過ぎています。 ジゼル伍長の眉がピクピク、と痙攣のように動きました。 「静かにしろ!」   これが鶴の一声というものなのでしょうか。ずいぶんと力技を使う鶴ですが、とにかく、ルカ達の口喧嘩は一旦止まりました。 「四八一分隊は全員中庭へ行け! 朝食はほかの分隊の希望者に渡せ! 以上、異論は認めん!」   被害は拡張しました。しかし、文句を言えば今度は何が加算されるかわかりません。素直に受け止めるしかないのです。 「はい! ……あ、えっと。四八一分隊は今から中庭へ向かいます!」   慌てて他の訓練兵に朝食を渡す彼らを見て、ジゼル伍長はやっと食堂を後にしました。 ◇◆◇◆ 「それでな、その兵士は死んだことを理解できていなくて、今も夜な夜な整備を続けているんだ!」 オットマーは勢いよく締めくくりました。 これが夜中で、聞いているのが女の子ならばキャーとかわいらしい悲鳴の一つも上がるのでしょうが、残念ながら今は昼間で、ここにいるのは年頃の男の子ばかりです。季節としては怪談にふさわしい季節ではありますが、恐怖を伝えるにはイマイチなタイミングでした。 「えー、それだけ?」 「今回はなんか微妙。怖くなかったし」 リクトとルカから案の定不評の声が上がります。 オットマーはそばかすだらけの頬を掻いて苦笑いしました。 「そうか? 結構聞きたてホヤホヤのネタだったんだけどなあ」   オットマーは怪談話が好きなようで、皆にせがまれてはよく披露しています。 毎日訓練、訓練の毎日の彼らですので、スリルを感じられるその手の話は結構な人気がありました。   明るく、さわやかな性格で誰とでも分け隔てなく話す彼が、あえてトーンを落とさず、淡々と話す様子はぞっとするときがあります。最初から怖がらせるつもりで話すのとは違う、特異な不気味さがあるのです。 しかもこの施設も案外古い歴史があるらしく、ここが舞台の怪談も豊富にあるようです。 「この前に聞いた十二人の兵士の詩ってやつ。あれ面白かったよな。ああいうのねえの?」   ぶちりと草を引き抜きながらアベルがリクエストしました。   中庭の掃除は主に草むしりと、落ち葉集め、演説台磨き、奥の方に通っている渡り廊下の掃除等です。 もともと、毎日掃除の時間に施設内をピカピカに磨き上げるため、渡り廊下と演説台の掃除はすぐ終わりますので、その二つは二班が担当し、残りの一班と三班が草むしりと落ち葉集めをしていましたが、途中からこのゲリラ怪談話が始まっていました。 そうでもして気を紛らわせていないと、とてもこの暑さの中、草むしりなんて過酷な単純作業をこなせません。 「ああ、あれ。でもあれ結構又聞きだったんだよな……。ロレンソ、お前も結構怪談知ってるじゃん。たまにはお前が話せよ」 「俺はいいよ」   隣にいたロレンソに話を振りましたが、断られてしまいました。 オットマーは口をとがらせます。 「えー、ケチだな」 「俺は聞く方が合ってるよ。それより、リノ、大丈夫?」 ロレンソは顔を青くしている男の子に声を掛けました。リノはヘラリと笑います。 「だ、大丈夫です」   リノはおとなしそうで臆病な見た目に反さず怖い話系は苦手らしく、いつもはこういう話にはあまり近づいたりはしません。ですが今回は逃げそびれてしまったようです。同じ班のオットマーはそれを知っているため、彼の前ではあまり怖すぎる話はしないようにしているようですが、うっかりしてしまっていました。慌てて謝ります。 「あ、そっか。悪いリノ! つい夢中になって……」 「あ、その、えっと。き、気にしないでください」   目立つことに慣れていないリノは、みんなに注目されて今度は赤くします。 すると、突然一人が立ち上がりました。 急に動くものがあらわれ、全員思わずそちらに注目しなおします。 「フン、だらしがないな。あれしきの話しならば、俺様を追っている夜の教団の方がずっと……いや、聞かなかったことにしてくれ。これ以上しゃべると貴様等にも危害が及ぶ危険性がある」 シュメルツは若者特有の不治の病にかかっていました。 それは恋、とは違うベクトルで厄介なもので、俗に中二病と言われています。それでも、邪険にされることはあまりなく皆ちょっと変わった奴くらいの認識をしているのは、彼が四八一分隊の三班に所属された幸運のおかげです。ロレンソやオットマーはそういうのを気にせず接してくれますし、リノも優しくて偏見も持たないタイプなので、彼の話をむしろ面白そうに聞いているときがあります。 「お前も足が震えてるぞ。シュメルツ」   オットマーがからかうように指摘しました。確かに彼は何でもない風を装っていますが、隠しきれていません。どうやら怖かったようです。 「二人とも、怖いなら二班の手伝いしなよ」 ルカが呆れたように提案をします。 「そ、そうですね。そうします」 「そうだな、いつかは俺様もあの台の上に立つのだ。一度くらい磨いておくのもいいだろう」   リノと、口だけはいっちょ前のシュメルツはその提案に素直に従いました。 二人の背中を見送りながら、ルカが口を開きます。 「で、他にないの怪談話」 「そうだなー……」 「あ、ハイハイ! こういうの知ってるか?」   アベルが手を上げました。 オットマーがおっと声を上げます。 「お、なになに。いいの知ってるの?」 「おう! タイトルは『あくまのにんぎょう』ってやつなんだけど……」 オチが見えたルカが即座にツッコミを入れました。 「却下」 「えー! ひでえな聞いてくれてもいいだろ!」 「聞かなくてもわかんだよ!」 そんなほのぼのとした平和な様子を見ながら、リクトが肩をすくめます。 「やっぱり、あれさエルガー二尉なりの冗談だったんだよね? スパイとかなんとか」 隣にいたリノがコクコクっと何回かうなずきました。 「ね。案外、あとでなんちゃって! とか言いそうだよね」 ハルが笑顔で、おそらくそういうこともあり得るだろうと本当に思いながらそういいますが、リクトが笑顔で首を振りました。 「いや、それはありえないけど」   ルカも挙手をして自分の考えを主張します。 「俺も概ね同意。この馬鹿ばっかのメンバーにスパイなんているとは思えねえし」 その意見を聞いて、ロレンソが苦笑しました。 「馬鹿ばっかって、ひどいな、ルカ」 「そういうロレンソははどう思うんだよ?」 ロレンソはんー、と少し考えて口を開きます。 「どうだろうね。まあ、確かにうちの分隊にはいなさそうだなとは思うけど」   だよねーと和やかな雰囲気が漂います。 しかし、そこに水を差すような声が入ってきました。 「それはどうでしょうね」 水を差したのは通りかかった二班のネスでした。 会話に参加してきた予想外の声に、皆驚いたように彼を振り返ります。顔は相変わらず張り付けたような、底の見えない笑顔を浮かべています。 「どういうこと? ネスさん」 驚いてぽかんとしている皆を代表して、ロレンソが先を促しました。 ネスは空気を察していながらも、笑顔を崩しません。 「僕の実家柄、軍の情報も割と入ってくるのですが、毎年軍に志願して潜り込んでくるスパイが一定数いるそうですよ」   ネス家という名前だけならカロカイで知らない者はいないという程の名家です。 彼はその有名なネス家の跡取りでした。なので、ネス=カネオという名前だけは広く知れ渡っています。 その意識が強いのか、持って生まれたものなのか、彼は常に上を目指し、あまり群れることはしません。 いつも笑顔を浮かべていいて人当たりは悪くないのですが、どことなく底が見えずとっつきにくいみんな一目置く存在なのです。孤高の存在と言い換えてもいいでしょう。 それの表れなのか、同期は呼び捨てにするロレンソやオットマーなどでさえ、彼のことはさん付けで呼ぶほどです。 もちろん、軍に所属している以上完全に一人で動くということは不可能ですし、成績にも響きますので、訓練などには協力的です。   ネスの話を聞いて、ハルが嗚呼、と納得した様子を見せました。 「そういえば、エルガー二尉も"例年通り"とか言ってたね」 「ええ。まあ、違和感なく潜り込ませる絶好の機会なのでしょう。  大抵はこの訓練施設ではじかれるようですが、何人かはそのまま潜伏しているという噂もあります」 「ほんとかよそれ」 「まあ、噂は所詮噂ですからね。信憑性は低いかと」 ネスは肩をすくめました。オットマーがへーっと相槌を打ちます。ロレンソも興味があるらしく、ネスに質問します。 「だったらさ、こっちからもスパイ送り込んだりしてるのか?」 「どうでしょう。さすがにそれは機密情報ものでしょうから、さすがにそこまでは。でも、スパイ関連はロスポンドの領分ですからね。ハイリリバーで果たしてスパイを育成できるのでしょうか」   そこまで話し終えたところで、明るい声が乱入してきました。 「はい、皆。お茶をどうぞ」 声につられて顔を上げると、そこには笑顔でコップを差し出すエリーナがいました。手にはまだいくつかの紙コップが乗っているおぼんを持っています。分隊の皆の為に持ってきてくれたようです。後ろで照っている太陽が後光のように見えました。 「あ、お話中断しちゃってごめんね」 「う、ううん。ありがとうエリーナ」 「サンキューエリーナ! さっすが気が利くな!」 「ありがとね、エリーナちゃん」 口々にお礼を言ってコップを受け取ります。エリーナはニコリと笑顔を返しました。 「どうしたしまして。今日、暑いもんね。何の話しててたの?」 「あ、えっと。オットマーの怖い話とか……」 「えー、この明るい中でー?」   くすくすと笑うマドンナを見て、ルカは頬を緩ませながら思いました。 ああ、やっぱり可愛いな。あの眼鏡。と。   エリーナ自体ももちろんかわいいのですが、その眼鏡が特に素敵です。 傷一つないレンズ。きっと毎日、優しく手入れをしているに違いありません。ウェリントン型のフレームが彼女の知的さを強調していて、本当によく似合っています。   器用にも彼女と世間話をしながら、眼鏡について考察をします。 彼女の眼鏡にうっとりしていても、エリーナはそんなことにはまったく気づいていません。ただ、自分と目を見て話してくれていると思いこんで、話を続けます。 「じゃ、草むしり頑張ろうね」 エリーナは飲み終わったコップを回収すると、ニコリと笑ってそう締めくくり、他の人に飲み物を配りに行きました。 ルカはうっとりとため息をつきます。そして、思わずこう思ってしまいました。 もしかして、エリーナもそのうちあんな風ジゼル伍長みたいになってしまうのでしょうか。 そんな彼女は想像したくもありません。 ルカは首を振って思考を追い払います。 「ルカ、なにやってるの?」   ハルが不思議そうに尋ねました。 草むしりをしていた友人が、いきなり首を激しく左右に振り始めたらだれでも聞くでしょう。 ルカはあたふたしながらごまかしました。 「い、いやー、エルガー二尉の眼鏡、今日もかっこよかったよなって!」 「またそれかよ」   アベルが呆れたような相槌を入れてきました。 それにルカはムキになって言い返します。ごまかすために行ったことですが、まったくの嘘を言ったわけではないのです。 「またってなんだよ! かっこよかっただろ! シャープなメタルフレームができる男感を出してて……。あの眼鏡が曇ってるのなんて想像できない。きっと、眼鏡拭きからして素材の良いものを使っているに違いないよな。いつか俺もあんな風になりたいぜ」 「ルカは本当に眼鏡が好きだよね」   ニコニコ顔のハルが指摘すると、ルカは顔を少し赤くしました。 「そんなことねえよ。ちょっとそう思っただけだ」 「ルカ、ごまかしきれてないって」   リクトが笑いながら指摘しますが、ルカは聞こえないふりをします。 思春期特有の、独特の羞恥心があるのでしょう。眼鏡のことを話すときは饒舌なうえに楽しそうなので残念ながら周囲にはバレバレなのに、このテの話題はどうしても素直にうなずきません。   突然、アベルがしりもちをつくように座り込みました。 「あー腹減ったー! だー! もー! 鬼か伍長は! 鬼だったわ! こんなんじゃ力でねーよ!」   空に向かって嘆くアベルに、ぞうきんが投げつけられました。 投げたのは、演説台を磨いていた浅黒い肌をした青年です。 「いや、お前のせいだロ! ちゃんと働けヨ! 巻き込みやがっテ!」   なまっているのとは違う、ほんの少しイントネーションに違和感のある話し方でアベルにつっかかります。 ちなみに彼は先ほど、ルカ達の残りの朝食を食べると進み出ていた一人でした。 「巻き込まれたのは自業自得だろ! 朝飯奪おうとしやがって!!」 「なんだト!?」   一触即発。 今すぐにでも喧嘩をおっぱじめてしまいそうです。この二人は対人戦闘訓練ではトップを争うほど腕っぷしが立ちます。が暴れたら止めるのは大仕事です。 「やめなさい!」 そんな二人の間に、小柄な青年が命知らずにも割って入りました。 先ほど真っ先に彼らのご飯を確保しようとしたルイスです。 キッチリと七三に分けた髪をワックスで固めてテカテカ光っています。制服は規定通り。式典などの時以外強制でない帽子まできちんとかぶっています。 「なんだよ、ルイス。止めんなよ!」 「そうダそうダ!」   アベルととリュメルに詰め寄られても、ルイスはひるみません。 ちなみにルイスの近接戦闘の成績は下から数えた方が圧倒的に早いです。決して弱いわけではありませんが、やはりきちんと訓練を受けている中に紛れると、下の方になってしまいます。 「アベル二士、リュメル二士。今授業中の分隊もいるんですよ。邪魔をするようなことはしないように」 「だってこいつが!」 「はア!? お前だロ!?」 「いーや、お前のせいだ」   断言して刺した人差し指をリュメルの褐色の頬にグリグリと押し付けます。リュメルはそれにカチンときたようで、それを払いのけると、アベルの頬に同じように指を押し付けました。 「お前ダ!」 「いや、お前だ!」   また取っ組み合いに発展しようとするのを、ルイスが一喝します。 「だから、静かにしてください! まったく……。二人ともちょっとそこに正座してください。だいたい貴方達はいつもいつも……」   そのままお説教に入ってしまいました。 見た目からわかるように、彼は頭に”クソ”や”バカ”が付くくらいの真面目な性格をしており、こうやって同じ分隊の仲間に注意をするのは珍しいことではありません。 「ほら、貴方達も口より手を動かしてください! 先ほどから私語をしているのが聞こえていましたよ!」   ルイスは目ざとく他の面々にも目を光らせました。自分たちにまで飛び火しないように、リクトが取り繕います。 「ちがうちがう。今度のテストの問題の出しっこしながらやってたんだ」 「本当ですか?」   ルイスは疑いのまなざしを向けてきます。 「ほんとほんと、ほら、問題出してあげて? ハル」 「え? 俺? えーと、じゃあ、ちょっと簡単な問題にするね。俺たちの住んでいるこの大陸の名前は? はい、ルカ」   何故か真っ先に指名されました。おそらく目に入ったからという単純な理由でしょう。 「カロカイ。って、簡単すぎるだろ。馬鹿にしてんのか。こんなん間違えるのアベルやリュメルくらいだろ」   指名されて思わず回答してからツッコミをいれました。すると、ルイスに正座をさせられていたアベルが立ち上がって抗議します。 「てめえが馬鹿にしてんのか! 俺だってわかるわ! ま、リュメルの野郎はバカだからわからねえかもしれないけど」 「聞こえてんゾ! アホベル!」   リュメルまでも立ち上がりました。そのまま胸倉をつかみあいます。 「うっせー馬鹿!」 「あんだト!」 「貴方達! また……」   口喧嘩から拳での喧嘩に変化しそうになり、ルイスの興味がまた二人に戻りました。リクトはこっそりとVサインをします。狙い通りのようです。 「おーい、一旦抜いた草焼却炉に持っていくから誰か手伝ってくれないか?」   いつのまにか草を回収していたロレンソの声に、ルカが立ち上がります。 「あ、良いぜ。手伝うよ」   大きな袋四つがもうパンパンになっています。 草の具合からいって、あと一袋あれば足りるでしょう。やっと終わりが見えてきたことにルカはほっとします。 毎日、一日の終わりに掃除をしているとはいえ、やはり毎日できることは限られています。もしくは、こういう罰用にわざと掃除し残しているのかもしれません。   ロレンソと半分ずつ手分けして、袋いっぱいになったそれを焼却炉へもっていこうとしたその時。聞きなれたヒールの音が近づいてきました。 全員口をつぐみいかにも今まで一生懸命作業をしていましたよ、という風に偽ります。こういう時は抜群のチームワークを発揮します。それこそ訓練以上に。 ヒールの音が止むと、中庭を見渡し、ジゼル伍長は楽しそうに言いました。 「――ふむ。なんだ、もう終わりそうではないか。ついでに他の所も掃除してもらってもいいな」   「ええ、そんなぁ!」   アベルがおもわず情けない声を上げます。 周りからにらまれて遅ればせながらも、あわてて口を抑えました。 「じ、自分たちはこれを焼却炉に持っていかなければなりませんので!」 「失礼します!」   そそくさと離脱しようとするルカとロレンソ。ジゼル伍長がいると気が抜けず、息が詰まります。 渡り廊下から施設内に入ると、明暗の変化に一瞬目がくらみますが、足は止めません。 酸素を求める魚のように、廊下を立ち去ろうとする二人を、ジゼル伍長は、そっと呼び止めました。 「ルカ二士、ロレンソ二士。――一寸いいか」   その声に二人は逆らえず足にブレーキを掛けました。上官に逆らえないというある意味の洗脳を受けているかのようです。カツ、カツ、と嫌にゆっくりと近づいてくるヒールの音。二人は気を付けの姿勢で固まります。 ジゼル伍長は二人をゆっくり見比べると、いつもよりは声を抑えた状態でこう告げました。 「貴様等の四八一分隊の中にスパイがいる」 「……はい?」   ルカは思わず間抜けな声を出してしまいました。慌てて取り繕おうとしましたが、ジゼル伍長は気にしない様子で続けます。 「貴様らのどちらかを疑っているのか、それ以外なのか。そもそも本当に四八一分隊の中にスパイがいるのか。それは教えられない。これはスパイあぶり出しの一環だ。貴様はせいぜい悩んで行動するんだな」   そういって、ジゼル伍長はどこかへ行ってしまいました。 呆然と立ち尽くすルカに、ロレンソが動揺した声で言いました。 「……冗談、だよな。あの人、ほんと性格悪い……」 「……そうだね、そうにきまってるさ」   ハハハ、と乾いた笑いを発しながら、ルカとロレンソは焼却炉へと再び歩き出します。それは彼女の言葉がまるっきり嘘じゃないと思ってしまったからです。 彼女の告げた最初の言葉だけが耳にこびりついています。   ――貴様らの中にスパイがいる。   もしかしたら、隣にいるロレンソがスパイかもしれないとさえ思ってしまいました。 ジトリとした嫌な汗が肌を伝います。ルカは平静を装うために、エルガー二尉の真似をしてブリッジを押して眼鏡を上げました。ですが、冷静さは取り戻せず、結局中庭に戻るまで二人はそれきり何も言葉を交わすことはありませんでした。

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