天地がひっくり返った。
俺の足元にはオレンジの夕焼け空があり、頭上には若草の生い茂る地面と、
半べそかいて顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしているデューイがいる。
森の木も花も、草も、鳥たちも、全部が全部逆さまだ。
「オーディーン! 大丈夫ー!?」
下と呼んでいいのか上と呼んでいいのかわからない地面から、デューイが俺に向かって叫んだ。
風が木の枝と俺を揺らす度、全体重がかけられている右足首が痛む。
まだ青くみずみずしい葉っぱが俺の目の前を通って、ひらひらと地面へ上がっていった。
地面までは結構な距離がある。
デューイの身長がたしか175cmだったか。
とりあえずそれよりはるかに遠いようだ。
「……大丈夫に見えるか?」
デューイを見上げながらため息をついた。
わかっている。
目を背けても状況は変わらない。
世界がひっくり返ったのではなく、ただ単に俺が逆さなのだ。
我ながら情けない。
いくら仕事終わりで腹が減っていたからといって、こんなブービートラップに引っかかるとは。
こんな状況を早く脱してさっさと夕飯を狩るか食いに行くかしよう。
そんな決意を決めると、腹の虫も賛同するかのようにぐうと鳴った。
当たり前だ。
今日は忙しくて夕飯どころか昼飯も食っていない。
これほどの一大事はなかなかない。
右足と木の枝をつないでいるロープを見る。
太くてとてもじゃないが、素手で引きちぎるのは不可能そうだ。
「おい、デューイ。俺の槍を取ってくれ」
罠に引っかかったときに放り投げてしまった槍を指さしながら指示を出す。
これだけ太い縄だからこいつ銃で十分狙えるだろうが、こいつは変なところで失敗をする。
この前なんてロケットランチャーを逆にもって、うしろにいた俺が撃たれたし、
手榴弾のピンを投げて本体はこちら側で爆発したこともあった。
そんな器用な失敗ばかりをするのだ。
馬鹿に任せるより自分でやった方が面倒だけど安全だ。
わかったと言いながらデューイが足元の相棒を拾ったところで、ムカつく声が聞こえてきた。
「あっれー☆ そこであんなブービートラップにかかってる人がいるー☆ あんなの猿だってひっかからないのにね☆」
俺が思いっきり顔をしかめたからか、デューイはちょっと顔をひきつらせた。
なんでこんなときにこんな声を聞かないといけないんだ。
「これを仕掛けたのはおめえか……」
「ん? なーんだ神様かー☆ じゃあ猿以下だからしかたないね☆」
「誰が猿以下だ!」
現れたのは始終にこにこ気持ち悪いうすら笑いをしている男は、たしかサタンとかいう名前だったか。
頭の中で奴の名前を思い浮かべるだけでもイライラする。
そんな奴と会うだなんて今日は厄日かなにかか。俺が一体なにしたってんだ。
「ここだとそのねずみ並みの低身長もこっからだとさらに低く見えるぜ」
「誰がねずみ以下だって? 身長しかとりえのない猿が☆」
「なんだとクソヤロウ」
「わー、人のことクソヤロウだなんてひどいなあ☆」
正直こいつとは相性が最悪だ。
会った時から理屈抜きにこいつとは分かり合えないと本能が告げていた。
それは相手も同じらしく、顔を突き合わせるとネチネチとした嫌味を言ってきやがる。
ほんとにいけすかない奴だ。
こんなやつ"クソヤロウ"で十分だ。
今回俺がこんな状況になっちまったのも、こいつのせいらしい。
「チッ。なんだよ、お前がこの罠にひっかかればよかっただろ。1か月くらいこうしていれば何ミリか伸びるかもしれねーぞ」
「お断りだよ☆ 神様も1年くらいそうしてれば脳に血液がいって少しはまともになるんじゃない☆
まあその前に頭爆発してほしいけどね☆」
へらへらしながら顔をしかめるなんて器用な芸当をするクソヤロウ。
俺はそのムカつく皮肉に応戦するのが精いっぱいで、クソヤロウの隣にいたデューイがおろおろしていることなど気にも留めない。
留める余裕などない。
「その前に脱出するっつーの」
「神様がそんなことできるわけ?」
こいつが俺のことをいやみったらしく神様なんて呼ぶのは、どこかの神が俺と同じ名前だからだそうだ。
こいつも悪魔の名前を名乗り、悪魔以上の外道だが、一応人間だ。
人類の汚点だなこいつは。
「問題ない。こんなのすぐに抜け出せるからな。おい、デューイ。槍を」
「あ、う、うん」
改めてデューイから槍を受け取ろうとしたら、そこになぜかクソヤロウが割って入ってきやがった。
「神様に投げるの? ちょっと借して☆」
言うが早いか、デューイから槍をひったくりやがった。
「おい、その槍に触るなくそやろ……」
俺の言葉が終わる前に何かが俺の頬をかすめた。
鳥でも通ったのかと思ったが、クソヤロウが舌打ちをしたことにより、そうじゃないことが分かった。
振り向くと、木の太い幹に俺の槍が突き刺さってた。
「今なら神様殺せるとおもったのに☆ 残念☆」
つまりこいつ俺の武器で俺を殺そうとしやがった。
「ふっざけんなよてめえ!」
「大真面目さ☆」
こいつ、降りたらぜってえ殺す。
そう決意を固めながら槍の柄に手を伸ばした。
拘束されていない方の足を木につけておもいっきり引っこ抜く。
つもりだったが、このくそやろうの馬鹿力のせいで奥深くまで刺さっていやがる。
頑張れば抜けないこともないだろうが、木の太い幹には大きな亀裂が入っていて、下手するとこの槍を引っこ抜いた瞬間木が倒れちまいそうだ。
「くっそこの悪魔が! ろくなことしかしねえな!」
「まあね☆」
ドヤ顔がすげえむかつく。わざとなのは明白だ。
低身長のくせになんっつー馬鹿力だ。
「頭に血がのぼって真っ赤だよ神様☆」
「てめえのせいでな!」
「そろそろ爆発する?」
「しねえつってんだろ! 死ね!」
本当にぐらぐらしてきた頭を振り絞るが、ここからの脱出法は浮かばない。
どうしたものかと頭を抱えていると、木で資格になる場所からくすんだ金髪の頭が現れた。
「サタン、ラックさんからそろそろヤツ等が来るって情報が入ったわ。いったん隠れ……あら、デューイ?」
「ソフィア! 久しぶりー!」
「あら、デューイ。本当に久しぶりね」
彼女を見るなりデューイが喜んだ。
ほんとこいつ人になつきやすい犬みたいだよな。
心なしか激しく振る尻尾が見える。
ソフィアは俺やデューイの知り合いで、このクソヤロウの仕事仲間だそうだ。
気の良い奴で、見て分かる通りこの馬鹿犬デューイもよく懐いている。
ただ、こんな奴クソヤロウとつるんでいるということだけは理解に苦しむが。
「わかったよ、ソフィア。じゃあこの馬鹿神様おいて隠れようか☆」
「あら、オーディンもいたのね」
「……よお」
「馬鹿な盗賊一人捕虜にするために作った罠が馬鹿な神様のせいで台無しだよ☆
ほんと、迷惑しちゃうよね☆ この馬鹿のせいで☆」
「馬鹿馬鹿うっせーぞ! 俺はデューイじゃねえ!」
再びクソヤロウとにらみ合う。
デューイが「ひどい」と絞り出すような声で言うのが聞こえた。
「本当に仲がいいわね。二人とも」
ソフィアがとんでもないことを言いたがった。
俺たちはその声の方を見て全力で否定する。
「よくない!」
「ソフィア、眼球左右入れ替えた方がいいんじゃない?」
「遠慮しておくわ。あまり効果なさそうだし」
クソヤロウの嫌味をさらりとやんわりとかわした。
これくらいのやわらかさと機転があるからこのふざけたやろうとも一緒にいられるんだろうな。
俺には無理だ。一緒の空間にいると思っただけでも胃に穴が開きそうだからな。
「それよりソフィア、早く隠れようよ☆」
「あ、そうね」
「ちっくと待って! オーディンは!?」
よく言ってくれた馬鹿犬。
ここに置いてかれるなんてどう考えても囮に使われるだけだ。
「大丈夫大丈夫☆ 死ぬ前に助けにはいるさ☆」
「……本当に?」
疑いのまなざしをむけるデューイ。
騙されるな。そいつは嘘しかつきやがらねえ。
ソフィアと協力しておろしてくれ。
そう言おうとしたが、ソフィアが先に口を開いたため、その発言をすることはできなかった。
「ええ、本当よ」
よりにもよって頼みの綱だったソフィアでさえ、俺を置いていく結論をだしてしまった。
半信半疑だったデューイもソフィアに言われたら信じたようで、一緒に隠れに行きやがった。
ソフィアがいればどうにかなると思っていたことだけに唖然とする。
そして俺は見逃さなかった。
クソヤロウが胸糞悪い笑顔をさらにゆがめているのを。
「てめえ! 死ぬ前ってことは俺がボロボロになるまで待ってるってことだろ!」
隠れるポイントなのであろう木の陰に向かうクソヤロウの背中に怒鳴りつける。
奴が振り向くと、やっぱり清々しい笑顔を浮かべてやった。
「もちろん☆ しかもそのあと命を救ってやって最大の屈辱を与える算段さ☆ そのあとに殺したげる☆」
「ほんっとろくなやつじゃねえな……!」
悪態をつくが、クソヤロウはそれを聞き流して身を隠しやがった。
最悪過ぎる状況だ。
俺だって腕に覚えがある。
そこらへんの盗賊なんぞにやられるつもりはない。
だが、この状態だ。どうなるかはわからない。
とりあえず頭を上げることにした。
腹筋の要領で起き上がり、足にくくりついている縄にしがみつき、なんとか足を下に、頭を上にする。
上った血が一気に降りていくのが分かった。
縄を伝って枝に手をかけると、今度は懸垂の要領で枝によじ登る。
やっと座れたことでなんとか一息ついた。
最初からこうしてりゃよかったのか。
あのクソヤロウのせいで判断が鈍っちまったな。
疫病神め。
改めて足に巻き付いた縄を見る。
太くて、きっちり結びついてやがる。
やはり素手でどうにかするのは無理なようだ。
思わず舌打ちをする。
「おい、さっさと酒もってこい!」
「宴会だ! 宴会だ!」
急に足元が騒がしくなった。
下を覗き込むと、十数人の男たちが荷物を持ってこの木の下にすわりこんでいるのが見えた。
なるほど、こいつらがターゲットか。
木の葉と枝のおかげで見つかる可能性は低いだろう。
俺は槍の回収を考える。だがどう考えてもも難しい。どうしたものか。
真剣に考え込む俺の思考はいきなり停止した。
強制終了させられた原因は下でのんきにピクニックだか宴会だかをやっている盗賊どものせいだった。
下から漂ってきたのは香ばしい肉のにおいと、じゅうという焼ける音。
それのせいで抑え込んでいた腹の虫が暴れ出した。
それから俺が理性を手放し、意識を飛ばすまで数秒とかからなかった。
そのあとのことは覚えていない。
気が付けば俺の周りはのされた盗賊どもと俺が上に載っていたはずの大木が倒れていて、口の中には肉が放り込まれていた。
ついでに見覚えのないモンスターの死体もじうじうと焼かれていた。
なにが起きたのだと、とりあえずもう一口肉を食ったところで、黒手袋に包まれた手が目の前に差し出された。
視線をあげるとそこにいたのはやけに目をきらきらさせたソフィアだった。
「オーディン。是非俺と戦ってほしいんだけど」
「は?」
「いやー、神様怖かったよ☆ まさか無理やり槍を引っこ抜いて大木倒したうえに盗賊一掃するなんて☆ 火事場の馬鹿力ってやつ?」
肉を咀嚼しながらクソヤロウを睨む。
一体何言ってんだこいつは。俺は怪訝な顔をしながらもソフィアの申し出を断り、
そのうしろでデューイがガタガタ震えていたデューイに聞いた話によると、木の上から獣が降りてきたかと思ったら俺だったのだそうだ。
あっというまに盗賊どもを瞬殺すると、そのままむさぼるように盗賊の持っていた食いもんを食ったかと思えば、足りなかったのか、そこらへんを歩いていたモンスターを狩ってきたのだとか。
まったく、こいつは目を開けて夢でも見てたのか?
俺がそんなことするはずないだろうに。
帰路を歩きながら、デューイはいろいろと教えてくれた。
どうやらクソヤロウたちの仕事は盗賊の一人を捕虜にして、そのほかを片づけることだったようだが、
捕虜を残さずすべて倒してしまった為、報酬は半額以下に落ちるのだそうだ。
クソヤロウはそれはそれは不機嫌だったとか
向かう途中だった街へ歩きながらデューイから事の一部始終を聞きながら、
俺はザマアミロと口の端をかすかに上げながら肉にかぶりついた。
何の肉かはわからんが、食えるな。
「で、ソフィアたちは、とりあえずその盗賊たちのアジトを探しに行くって……」
「へえ」
「それで……」
そこまで言ったところでデューイが突然悲鳴を上げた。
なにごとかと振り返る前に髪をおもいっきり引っ張られた。
後ろに引っ張られたかと思えばそのまま落下した。
そこは崖でもなんでもなかったはずなのに、たっぷり十秒以上地面に接触しなかった。
ようやく衝撃が伝わったころには空は遠く、しかも丸く切り取られていた。
背中を強く打ち付けたまましばしその丸い空を見上げていると、土だらけのデューイが俺の顔を覗き込んできた。
「いてててて、ひどい目にあった……」
そういいながら頭や服についた土を払うデューイ。
俺はすばやく身を起こすと、その頭に拳骨を落とした。
「こっちのセリフだこの馬鹿犬!」
「ごめんちやああああああああ」
まったく、悪気があってするんじゃねえからたちが悪い。
悪気があったらあったでたちわるいけどな。例えばあの……
「あっれー☆」
上から振ってきた声に俺はぎくりとした。
おそるおそる上を見上げるそこには、赤い目を細めて嬉しそうにしている悪魔がいた。
「神様、まーたこんなのにひっかかっちゃったわけ? ほんと馬鹿だね☆」
「クソヤロウが! またお前か!」
「さっきは見下ろされたからね、今度は俺が見下ろす番だよ☆」
「うっせえ! てめえみたいなチビなんて吊り上げられてなくても見下ろせるっての!」
「馬鹿犬と馬鹿飼い主、そこで仲良くしてればあ?」
高いとこからいつにも増して偉そうに言うクソヤロウが癇に障る。
その落とし穴はどう掘ったのかわからないが、かなりの深さで、身長があるほうの俺とデューイが肩車しても
抜け出すことはできなかった。
どうにかこうにか穴から抜け出すころには、あの黒い悪魔は飽きてとっくの昔に去っており、
そこから最寄りの町に着くころにはもう朝になっていた。
俺達は仕事の報告や報酬の受け取りに役所へ行くより先にレストランへ直行した。
なにもかもボロボロのままで適当な席に座り、朦朧とした頭でメニューを見る。
食ってないとやってられっか。
そう開き直って、俺の食いっぷりに慣れてるはずのデューイがあっけにとられるほど注文をして片っ端から腹に押し込んだ。
結局今回の仕事の報酬はその食費とかわらず、俺は今回一体なんのために仕事をしたのかと少し悲しくなった。