決して叶うことのない恋をした。
それまで自由気ままに生きていた僕の世界は、気が付いたらすっかり君で埋め尽くされてしまっていた。寝ても覚めても、町の中を歩いていても、ご飯を食べていても思い出すのは彼女の事だけ。
こんなに想っていても、僕はこの止めどなく溢れだす想いを彼女に伝えることすらできない。
それに君だってきっといつか僕のことを忘れ、僕も君の事を忘れてしまうだろう。きっとそのほうが僕は報われるし、僕にとっては当たり前のことだ。
でも、どうしてだろう。彼女を記憶から消してしまうという、その想像は僕の心を締め付けた。それは多分君の事を忘れることが死よりもなによりも、今の僕にとっては辛いことだからと分かっているから。
だから僕はまた君に会いに行く。この想いを、君を、忘れないように。一瞬でも長く覚えておけるように。
丘の上には僕たちの住んでいる町が見渡せる展望台がある。そこにある古いベンチが僕たちの待ち合わせ場所だった。
ベンチはもうほとんどの人がそこを使っていないのだろう。ペンキははがれ、足元は雑草が好き放題に伸びていて、お世辞にも手入れが行き届いているとは言いにくい。今日はまだ彼女は来ていないようだったから、僕は先にベンチに座った。
ふと空を見上げると、さっきまで彼女の大好きな青色に染まっていた空は紫色に変わっていた。
なんて考えてみるけど、僕にとってはどれも同じ。たいした違いはない。空の色なんて気に留めたこともなかった。彼女に見えている世界と僕の見えている世界は違う。でも、知らないことも彼女が教えてくれると、僕もその魅力を知っているみたいに思えるから不思議だ。
初夏の風が僕をなでる。
今の時期は昼間は太陽が容赦なく照りつけるが、夜はまだ冷え込むからまだ過ごしやすいほうだろう。だけどこれからどんどん僕の過ごしにくい季節になっていく。
夏は嫌いだ。雨が降るし、そもそも暑いのが好きじゃないから。視線を落とすと、短い自分の影が目に入った。
真黒な僕の影。それは本当に僕の分身のようだ。
「来てたんだ」
声が掛けられると同時に、影が大きくなる。顔を上げるといつのまにか彼女がそこにたっていた。よかった今日も来てくれた。ほっと胸をなでおろす。彼女は僕の頭をなでてから、僕の隣にすとんと腰を下ろした。
「今日は暑いね」
そういって差し出してくれたのはミルク。僕はよろこんでそれを受け取り、波紋を広げながらごくごくと喉を鳴らして飲んだ。自分では気づいていなかったけどよっぽど喉が渇いていたらしい。液体が身体中に染み渡る。
それを見た彼女はまた僕の頭をなでた。彼女は何故か僕の頭をなでるのがいたく気に入っているらしく、ことあるごとに僕の頭に手を置いた。僕も彼女からそうされるのは嫌いじゃない。
彼女が僕の中でこんなにも大きな存在になってしまったきっかけも、彼女が僕の頭をなでてくれたからだった。
寒かったから冬だっただろうか、詳しくは覚えていない。この丘の近くにある川で足を滑らせて溺れているところを、彼女が助けてくれたのが最初の出会いだったらしい。彼女の話では、そのときは彼女が水から上げてくれた瞬間、僕は逃げてしまったのだという。本当に覚えてない。昔の僕は何をやっているんだ。今の僕からしたら考えられない。
そして、再会したのはちょうど僕がこのベンチで昼寝をしているときだった。先に気づいたのは彼女。
「あれ、君あのときの……」
そういわれて首をかしげた。僕はそのときもう既に彼女のことを忘れかけていたのだ。
実際今はそんなことがあったなんて全く覚えてない。でも彼女がそういったのだから、きっとそうだったのだろう。
「もう溺れないように気をつけるんだよ」
そう言って彼女ははじめて僕の頭をなでた。
すると冷たくて、痛い、水の中でもがいているときに助けてくれた手のぬくもりを思い出した。記憶ではなく感覚がよみがえったんだ。僕は彼女に助けられて生きているのだと、感じた。
それから、ここにくれば彼女に会えることを覚えた僕は、毎日ここに足を運ぶようになった。
最初は姿を見るだけだったけど、次第に彼女も僕に気づいて、挨拶をしてくれるようになり、やがて話しかけてくれるようになった。
彼女はいろいろなことを僕に教えてくれてた。もう話の内容の大半は忘れてしまったけど、彼女の話を聴くのが好きだということだけは覚えている。僕にとってはそれが一番重要なこと。彼女も僕が聞いているかどうかなんて気にしていないようで、一方的にいろいろなことを話していた。僕がどこにもいかないから、聞いていると解釈しているのかもしれない。
一番多い話は友達の話。いつも愚痴をこぼすように話すが、その時の表情はとても柔らかい。きっと彼女は自分の認識している以上に彼らのことが好きなのだろう。
そんな彼女の少し素直じゃない愛情を受け、そしてそれに応える術を持っている彼らに少しだけ嫉妬しているのは内緒だ。
今日はどんなことを話してくれるのだろう。ミルクを飲み終わり、口の周りについた白い液体をペロリと舌で舐めると、顔を上げまっすぐに彼女を見た。それが彼女の話を聞くという合図だった。彼女はそれを見て微笑むと、僕の頭をなで、言葉を紡ぎだす。
これが僕の日常で、すべてだった。
今日も同じだった。彼女は眼を細めて僕の頭に手を置くと、口を開いた。
「今度ね、久しぶりに友達と遊びに行くんだ――」
・★・★・★・
夜空がうらやましかった。
僕と同じ色をしているのに、たくさんの月や星たちが明るく照らしてくれるから。僕にはそんな友達はいなかった。闇と同じ黒。それが僕の色。
人からは嫌われ、仲間たちからは疎まれた。僕はずっと独りぼっちだったのだ。
闇に同化して、消えてしまいたかった。夜空になれたのなら寂しくないのかな。
でも、彼女が現れたおかげで僕の世界は変わった。
太陽のように明るくて、月のように優しく、星のように煌めいている僕の光。それはただ一点を照らすだけではなく、僕を闇ごと優しく包んでくれた。空よりも大きな存在。
この前まで、妬んでいた夜空に向かって自慢する。
どうだ、うらやましいだろう。
・★・★・★・
青色なのにちっとも涼しげじゃない空が、オレンジ色に変化し始める。
色は温かみを増しているはずなのに、それに反比例するかのように、空気は冷たくなっていく。なんて。これも彼女の受け売りなんだけど。くやしいけどやっぱり僕は想像することしかできないんだ。
今日は冷えそうだな。身体がぶるりと震えた。
近くにある時計を見上げる。彼女はまだ来ていない。
別に毎日会うって約束しているわけじゃないし、何日も会えない日だってある。珍しいことじゃない。そういえば、今日は友達と遊びに行くと言っていたかもしれない。誰とどこに行くと言っていたところまでは覚えていない。
……今日は来ないのかな。
なんだか胸騒ぎがした。以前にもこういうことがあった気がする。こういうこと、ってどういうことなのかはわからないし、僕は記憶力に自信はないから、絶対あったとは言い切れないけどそんな気がする。そしてそういうとき僕はここで寝泊まりすることにしているんだ。その理由も思い出せないけど、そうしないといけないと記憶の中のぼやけた僕がそう言うんだ。
過去の自分を信じて僕はベンチの上で目を閉じた。
目が覚めたのは暖か差を感じたからだった。
まだ閉じていたい瞼をこじ開けるとそこには君がいた。いつのまにか僕の隣に座っていたのだ。手をのばしていつものように僕の頭をなでてくれていた。その表情にはいつもに比べて光が足りない。
「あ、起しちゃったかな。ごめんね」
そういって手を離す。
まだ彼女のぬくもりに触れていたかったから、少し名残惜しくて引っ込める手をつい目で追ってしまった。
起き上って顔を覗き込むと、彼女はうつむき、僕ではなく膝の上に置いた自分の手を見つめていた。ぎゅっとこぶしが握ってある。
僕はいつものように彼女が話し出すのを待った。静かに、ただ彼女を見上げていたのだ。
「私、人と一緒にいると不安になるんだ」
やがて、彼女は雨を降らすかのようにぽつりぽつりと話し始めた。
「仲のいい子でもそう。私なんかと一緒にいて楽しいのかな、必要とされているのかなって思っちゃう。だからね、何人かの友達と一緒に歩いているときたまに足を止めるんだ。気づいてくれるかなって」
僕の脳裏に友人の背中をさみしそうに眺める彼女が映し出された。だんだん彼女と友人たちの距離はひらいていくに連れて不安そうにゆがめられる彼女の表情は、友人が振り返ってくれることでやっと、いつもの明るさを取り戻した。
「今日も、そう。不安になったの」
彼女の顔に影が落ちる。表情がよく見えない。僕は相槌もうたずにただただ彼女の次の言葉を待った。
「ねぇ……私は存在していいのかな。ここにいていいのかな」
やっと顔をあげた彼女の目には涙がたまっていた。
いつも明るく僕を照らしてくれた彼女。闇は闇だけで存在することができるが、光は存在するなら必ず影ができる。彼女の性格からして、その闇を誰にも言えずにいたのだろう。きっと彼女の影はもっといっぱいあるはずだ。だってあんなに明るいのだから。星や月に、いや、お日様にだって負けないくらい。
でもなんでもすぐに忘れてしまう僕には、その苦しみが理解できない。どんなに辛いのか想像することしかできない。それが歯がゆくて仕方がない。
「ごめんね。こんなこと君に言っても、仕方ないのに」
彼女が目を細めると溜まっていた涙が頬をつたい、僕の頭に落ちた。
彼女が僕の心に降らせた雨でできた水溜りが、静かに波打つ。とても弱々しい彼女はその波紋に揺られて、今にも消えてしまいそうな感覚に陥った。
できるならば彼女を力いっぱい抱きしめてあげたい。涙を拭いてあげたい。
僕の声で、言葉で励ましてあげたい。
いつも彼女が僕にしてくれるように頭をなでてあげたい。
でも僕は言葉を紡ぐ喉を持っていないし、君を包み込む大きくて長い手もない。今のままの僕がやったとしてもきっと言葉は曖昧な音となり、鋭い爪は彼女を傷つけてしまう。
――もし、僕が人間だったら。
考えたことがないと言えば嘘になる。でも今日ほど人間になりたいと願ったことはおそらく今までないだろう。
もし、僕が人間だったら、君と手を繋ぐことができる。
もし、僕が人間だったら、君の話に相槌を打つことができる。
もし、僕が人間だったら、君にこの想いを伝えられる。
もし、僕が人間だったら、死ぬまで君を忘れないでいられる。
もし、僕が人間だったら、君を包み込んであげられる。
でも、それは叶わない願い。痛いほどわかっている。だから、甘いはずの想像はこんなにも胸を締め付けるんだ。
「もうそろそろ帰らないと」
袖で涙を拭いながら彼女は立ちあがった。
空は相変わらずたくさんのものが夜を明るくしている。話すことですこしは気がまぎれたのだろうか、月の明かりに照らされた彼女の表情にもすこし輝きが戻っていた。
「じゃあね、いつも話を聞いてくれてありがとう」
彼女の言葉に頷く代わりに、僕はニャオンと一声鳴いた。
こんなことがあったなんて、きっといつか僕は忘れてしまうだろう。でも記憶はなくなったとしても、この感情だけはきっと、彼女の手のぬくもりを思い出した時のように僕の中に残るはずだ。
もしも彼女を忘れるという、至上の痛みさえも忘れることが来たとしても、それでもここで君に会い、たくさんの光をもらったことだけは忘れない。忘れたくない。
それが僕の世界のすべてなのだから。
彼女は最後に僕の頭をなでる。彼女のぬくもりが心地よくて、おもわず喉を鳴らした。もっと君と一緒にいたいのにそれはできないんだ。
手を振って丘を降りていく彼女の背中を僕は見守った。
あくびをひとつして顔を洗うと、ベンチから飛び降りる。
僕はまた明日このベンチに来て、彼女を待つ。彼女を忘れないように。僕の世界を保つために。
明日彼女が来てくれる保証も、僕が車に轢かれて死んでいないという保証もない。絶対という言葉がないこの世の中の理不尽さを憎みながら、寝床を探すため僕はしっぽを揺らしながら丘を降りた。
明日、彼女に笑顔はあるだろうか。