オスパーティー第八章 第三話「……私なわけか」

作戦はこうだった。 「まず正攻法じゃこっちが不利なんだよな。あっちはこっちの最終目的地を知ってるし、何よりただただ目玉をマークして邪魔し続ければ問題はない。対してわっちらはその警戒網を突破し、相手の隙をついて図書館にたどり着かなければならない。難易度が違いすぎるんだ」 「……それは言っててもしょうがないだろ」 「まあな」 ジェンは素直にうなずいた。 朝市が始まったのか、人通りがさらに多くなる。 人々に紛れてカノンやレイブンが来ていないかは、らみぃゆが見張っていた。 少しでも通りから姿が見えにくいようにと、気持ち奥のほうへ移動しながら、ソフィアが話を続ける。 「それに、その目玉をなくしたらもう俺達はどうしようもできなくなるわ。もう立て直せない。これも難易度を上げてる要因の一つね」 「で、わっちらはその目玉をダメにする事態に陥った」 アルトは反射的に目をそらす。 直接的に彼女のせいではないが、最後に目玉の入ったバケツを持っていたのは自分だ。 「もともと品薄なイェピカの目玉をまた調達できたのは偶然でしかない。迷子先でその糸口がつかめるなんて、奇跡でしかない」 「運がよかったわ」 「今回”は”、な」 ジェンは補足しながら、お面の下で意味ありげに苦笑いする。 ソフィアはそれを気に留める様子もない。 代わりにその言葉にひっかかったのはアルトだ。 「今回は? も、じゃなくて?」 そもそも目玉を集める段階でもアルトたちは運よく巨大なイェピカと遭遇している。 「あれはわっちの日ごろの行いと運のおかげ。さっき言ったのはソフィアのことで……ああ、この辺は重要じゃねえから飛ばすぞ。心配しなくても、お前もそのうち理解するぜ」 理解する、という言葉は、ことartに使われるということは、いずれ慣れる、と言われているようなものだ。 アルトはあまり理解したくないな、と思いつつ頷く。 「話を戻すわね。それで、レイブンとカノンからどうやってこの目玉を守るかなんだけど……」 「そんなの、全員で……4人で協力すればいいだろ。お前とミィレが一気にこっちに寝返って、相手は二人なんだから……」 アルトは何度も言っていることをまた提案した。 それをジェンが鼻で笑う。 「ばあか。お前、わっちらがなんで裏切ったか忘れたのか。きっとわっちらに報酬を払わなくてよくなったら、すぐに敵を補充するぜ。完全に信じ切っちゃいないだろうから、多少の準備はできてると思う。もしくは何らかの手を打ってるはずだ。敵が増えればクエストの難易度が上がって、クリアから遠のく」 「じゃあどうするんだよ」 「とりあえず考えてるのはシンプルに囮と攪乱。どういうことかわかるか?」 ジェンに試されるように問われ、アルトは今までの話を整理する。 そう難しい問題ではない為、すぐに答えが出た。 「攪乱は二重スパイのジェンとミィレ、だよな。で、囮ってのは……」 二人の視線に気づき、アルトは顔を引きつらせる。 「……私なわけか」 「ツッコミなら単独行動してもおかしかねえ。くれぐれもボロ出すんじゃねえぞそれに、最後の最後、襲われてもソフィアならなんとかなんだろ。」 言外にイェピカの目玉集めの際の単独行動を示唆している。 責めている様子はないが、アルトは少し視線をそらせた。 確かにあの単独行動はレイブンもカノンも知っていて、アルトが短気でそういう行動に出るかもしれないというミスリードにはうってつけだ。 そう考えると先ほど駅のホームでソフィアが言った言葉も理解できる。 あの時はダミーをソフィアが持っていて、アルトが目玉を持っていた。 だから役割を交換してそのほかは手はず通りにするつもりだった。 これで、疑問は大体解消した。 「さっき裏切ったわっちらにもキレて、一番ギャーギャー騒いでたからな。勘違いさせるには状況がちょうどいい」 「そう考えると演技じゃなくて作戦を知らなくてよかったかもね」 「だな。ってことでツッコミ、そのブツをソフィアに」 「アルトは俺の荷物持っといてね」 ソフィアとアルトは荷物を交換した。 今度は役割通りソフィアが目玉を。 アルトがダミーを。 ジェンはその様子を見ながら首を傾げた。 「あ? そっか。せっかくカモフラージュ用のダミーの荷物用意してたんだが、別にいらなかったな」 そういって、ジェンは影に隠していた紙袋を取り出した。 「ま、邪魔だし、ツッコミ、持っといてくれ」 そういってジェンに押し付けられた紙袋の中をのぞくと中には黄色が詰まっていた。 「……レモン?」 「そう。ほら、あいつらにもらった……なんだっけお前の幼馴染だっけか。あの、でけえ十字のピアスしてるやつ」 「カルか」 あの時のレモンか。とアルトは納得する。 確かに逃げるときにジェンと一緒にベンチに置き去りにしていた。 ダミーには見た目や重さ、量もちょうどいい。 「そうその似非ヤンキーからもらったやつ」 「似非ヤンキーって」 アルトは吹き出した。 ”エセヤンキー”ということばが妙にしっくり来てしまったからだ。 確かにカルは、粋がっているし見た目もヤンキーに見えなくもない。 だが、それにはどこか偽物感があった。 恰好も本人のただの好みだし、粋がっているのも負けず嫌いで沸点が少々低いだけなのだ。 彼の本質的なものがにじみ出てそう感じるのだろうが、”似非”という表現はまさに的を射ていた。 今度言ってやろ。 「アルト、大体の作戦はわかった?」 ソフィアに確認され、我に返った。 そうだ、今はこちらに集中しなくては。 「……つまり、私が目立って敵を惹きつけて、ジェンとミィレがそれを支援。その間にソフィアが目玉を運ぶ……ってことだよな」 「その通り」 「問題ないな。ってことで、あとは頼んだぜ」 そういって早々に撤退しようとするジェンをアルトは慌てて引き留めた。 「お、おいおい。本当にそれだけか? 作戦とか、戦略にしちゃあ雑把だし、もっとこう奇をてらったようなものがいいんじゃ……」 「大体はノリでなんとかなるんじゃね?」 「というより、綿密な作戦建てても意味ないと思うわ。その通りに動く俺達じゃないもの」 ソフィアが肩をすくめる。 それに対してツッコミを入れようとするアルトが口を開ける前にジェンが頷いた。 「だな。きっと、ミィレだったらこう言うぜ? “作戦は……”」 『作戦は壊すものよ!』 突然真後ろからキンとした声が響き渡った。 驚いてアルトが「うわっ!?」と悲鳴をあげながら振り返るとそこにいたのはらみぃゆだった。 彼女は手に黒い兎型の小型通信機を持っている。そこからミィレの声がまた響く。 『びっくりした?』 いたずらっ子のような声でケラケラ笑っている。 「ミィレ、なにやってんだよ。見張りは?」 『ちゃんとやってるもーん』 姿が見えないのに、不思議と謎に胸を張っている様子が目に浮かぶ。 『それを証拠に、どうもカノンたち、そっち方面に飛んでったみたいだから教えてあげようと思って。えっとね、酒場方面から向かってるよ』 ミィレの情報に、ジェンは顔を曇らせた。 「マジ? はやくね? えー、どうするよ」 「仕方ないわ。時間稼ぎのためにとりあえずバラバラに分かれましょう。ジェン、アルト、またあとで」 「わかった」 そういって、2人はそれぞれ違う方向に走り始めた。アルトは迷う。 下手な行動はとれない。 何か違和感を感じさせてしまえば、囮だとばれて、ソフィアに狙いを変更されるのも時間の問題になってしまう。 しかも、見つからないように隠れていたら囮の意味がなくなる。 不本意ながら自分で考えた行動は裏目に出ることが多い。 それならば、自分が目玉をもって単独行動をするならどうするかを考えてみよう。 アルトは軽く目をつむった。 とりあえず、裏道はやめて一目も障害物も多い大通りに出て、それから人ごみに紛れたりしながらまっすぐに図書館へ向かう。 うん、囮という自分の役割においていい塩梅の行動なんじゃないだろうか。 行動が決まり、大通りへと足を向けようとしたその時。 なにか嫌な予感がした。 悪寒というべきだろうか。誰かに見られているような。 周りを見渡すが、ここはまだ人通りの少ない路地だ。 誰も何もいない。 しかし、気のせいではない。油断してはいけない。 とりあえず死角を少しでもなくすために、壁に背中を付けて警戒していると、 「何をお探しで?」 自分に掛けられた声に、来たか、と緊張する。 しかし、聞こえてきた方向は……下? 視線を下に向けると、いつのまにか足元で猫がまんまるな目を下からアルトに向けていることに気が付いた。 まさか。と思っていると、猫は小さく口を開けてにゃあ、と可愛らしい声を上げた。 思わず相好をくずす。 いつものアルトなら喜んで猫を構いはじめるところだが、この猫は今、敵かもしれないのだ。 ぐっと我慢して手を引っ込めると、 「いつものように撫でてくれないのですか?」 再び足元から声が聞こえ、飛び上がりそうになる。 飛び出した心臓を飲み込んで、平静を装いながら視線を下に向けた。 やっぱり黒猫が行儀よく前足をそろえアルトを見上げていた。 「まさか。お、まえなのか……?」 半笑いで言ってみる。 冗談だろ。いや、むしろ冗談であってくれ。と。 しかし、猫はにゃあ、という愛らしい鳴き声ではなく嫌にしっかりした口調で「はい」と答えた。 口は開けているように見えないため、テレパシーの類なのかもしれない。 でも、それが猫の発しているものだということはなんとなくわかってしまった。 アルトはおそるおそる猫に視線を合わせるように片膝をついた。 「……私に、なんの用だ。お前は……一体……」 幻覚や変身して何者かが猫の恰好をしているのではないようだ。 そうであったらまだすんなりと今の状況を受け入れられていただろう。 猫はゆったりと尻尾を揺らす。心なしかその緑色の目は弧を描いて不気味に笑っているようだ。 「私は……」 黒猫はそこで言葉を途切れさせ、ゴロゴロと鳴いた。 「……あの、何をしているんですか?」 ゴロゴロと喉を鳴らしながら聞いた。 気が付くとアルトは猫の顎の下を撫でていた。 慌てて手をはなす。 「……あ、いや。猫は見たらかわいがるものと思っているもんだから……つい癖で。そ、それにお前だってさっき、撫でてくれないのかって言ったじゃないか」 「……まあ言いましたけど……」 猫が呆れているのに気づき、アルトは両手を軽く挙げた。 完全に無意識だった。 「悪い、続けてくれ」 「……ええと、なんでしたっけ。もう、猫は忘れっぽいんです。気をそらさないでください」 少し機嫌を悪くして睨むが、その姿すらかわいく思えてしまうところも猫の不思議なところだ。 アルトは思わず苦笑いする。 「悪かったって。そうだな、とりあえずお前は何者なんだ? ……もしかして、禁書と、関係あるのか?」 「関係あるも何も私は契約者です」 「……けいやくしゃ?」 アルトは間抜けな声でおうむ返しをした。猫は平然と「ええ」と相槌を打った。 契約者。今目の前にいる黒猫は自分を禁書の契約者だと言った。 「悪魔と契約したのか? お前が?」 「はい」 猫たちと禁書、何かしら関係があることは目星がついていた。 しかし、まさか猫自体が契約者とはだれが思っただろう。 ただ操られたり、被害を受けているだけ、というものとはわけが違う。 「……どうして……一体、なにが目的で……」 アルトは思考が止まらないように、次の質問を投げかけた。 そしてそれは当然の疑問だった。 猫は答える。 「人間への復讐、でしょうか」 「……はっきりしないな」 「知性も何もなく、何も考えていないただの猫の時に交わした約束です。言語化がし辛くて……。……確か、あの時は、ただ、人間に怒っていたのです」 猫は耳を垂れさせる。 「……つまり」 アルトは大渋滞を起こしている頭を指で押さえる。 「お前は人間への復讐のために、自分の命を引き換えに契約をしたと」 「はい」 「他の猫たちは? 猫全員で契約したのか?」 「いえ。私だけです。猫にしては生まれつき魔力が強いほうでして。ほかの仲間は禁書により操っています」 「……イェピカの目玉を集めていたのはどうしてだ?」 「操った猫たちが戦力になるように魔力付加のためが目的で、また、それを媒介に我々に少々干渉して手助けをしていただいています」 本当は聞きたいことがもっと沢山ある。 ありすぎて、どこから手を付けていいかわからず、とりあえず会話の流れに身を任せるしかない。 まずは一つ一つ確かめていくことが大切だ。 幸いなのか、何故か黒猫はアルトの質問に答えてくれている。 それが本当なのか嘘なのかはわからないが、頭の整理のためアルトには必要な行為だった。 「でも……お前はもともと黒猫だよな?」 「はい」 そっと黒猫をなでる。暖かく柔らかい。 「……目玉の汁で濡れてもいない。おまえは、どうやって力をもらっているんだ?」 「私は他の猫とは違い直接もらっているのです。契約しているのが私だという証、になるでしょうか」 「なるほど。……それじゃあ、質問の方向を少し変えるぞ」 そう前置きをして、アルトは最大の疑問をぶつけた。 「――私に何の用だ」 イナエを離れようとして連れ戻された。 気のせいじゃなければ、確かにここ数日猫たちがアルトを遠巻きに見ていたことが何回かあった。 ということは昨日今日で目を付けられたわけではないだろう。 しかも、今こうして声を掛けられた。 わざわざ彼女が一人になるタイミングを見計らって。 「勧誘に来たのです」 「勧誘?」 「ええ。我々と組みませんか?」 アルトは息をのむ。 「そ、れは……」 「もちろん見返りはございます。協力していただければ、禁書は次の契約を是非貴女としたいとのことです」 「拒否すれば?」 「そんな、こんないい話を棒に振るおつもりで?」 猫は大げさに驚く。 「ただ、私の契約が無事終わるまで、用心棒をする。それだけでいいんですよ?」 「用心棒……だから、それを、なんで私に?」 確かにアルトは少々腕に自信がある。 しかし、この街にはもっと強い者がたくさんいる。 例えばartはその筆頭だろう。 猫はゆらりとしっぽを揺らした。 「禁書と契約し、我々の願いを叶える準備をしながら、この街の人間を観察していました。小さな町でしたが、たくさんの人がいました。手を挙げる人も、撫でてくれる人も、怒鳴る人も、語り掛けてくれる人も、たくさんいて。その中で、私は貴女の手が一番心地よかった」 猫はアルトの手に頭突きをするように頭をこすりつけた。 「そして僕と同じ一人ぼっちだ。僕が選んだのはそういう理由です」 「一人ぼっち……」 その言葉にアルトは若干の違和感を抱いた。確かに自分は一人ぼっちだ。そのつもりだ。 「協力してくれますか?」 急かすようにもう一度問い直す猫。 アルトは考えるように軽く目をつむる。 きっと彼の一人ぼっちとアルトの一人ぼっちは違う。 黒猫はきっと生きる上で本当に人や仲間を頼れなかったのだろう。 一人ぼっちでいないといきれなかったのだろう。 可愛がってくれる人はいても信じきれなかったのだろう。 対してアルトは今はartというパーティーに所属していて。 カルという幼馴染や、付き合いのある友人のような知り合いも何人かいる。 でも、自分にかけた呪いのような信念により彼らと距離を置いている。 信じたくても信じることができず、一人ぼっちであるのは共通しているが、どこかが違っている。 「……すまん。正直展開が急すぎて頭がついていってない」 「無理もありません。でも……」 そこで猫はまたゴロゴロと鳴き始める。 アルトの手がまた撫でているのだ。 猫は気持ちよさそうに目を細めながらも戸惑ったように頼む。 「……あの、とりあえず撫でるのやめてもらえませんか? 確かに貴女の手が好きだとは言いましたけど、TPOってものがあるでしょう。聞く気あります?」 「うーん、もうちょっと……」 ストレスや、疲れていた反動もあったのだろう。 アルトは目の前の欲から逃れることはできなかった。 目の前の愛らしいモフモフに癒されて、現実逃避をひとしきりしてやっと手を離した。 猫はくしくしと顔を洗う。 「ええと、なんでしたっけ。とりあえず、力を使って、禁書と私に貢献すれば、願いをかなえてもらえますよ」 随分気をそらされてしまったようだ。 猫は要点だけをもう一度伝えた。 「……お前の言葉を信じろと?」 「ひどいなあ。あんなにかわいがってくれてたのに。さっきだってあんなに撫でまわしたじゃないですか」 猫は媚びるようにアルトの足にすり寄った。 アルトはうっかり喜んでしまいそうになる。 猫の気まぐれな甘えは貴重なのだ。 「……い、今は敵だからな」 今更だが自分を律し、冷たい態度をとる。 猫はそうですか、と耳と尻尾を少し垂れさせた。 可愛いと思う気持ちを飲み込む。 「私の願いが叶うことは、貴女の願いの一部が叶うということでもあるんですよ」 「……どういうことだ?」 「禁書ほどの力はありませんが、私でも貴女のあの時のおねがいは聞いてあげられます」 猫は緑色の瞳で真直ぐにアルトを見た。 瞳孔は針のように細くなっている。 「仕返し、してほしいんですよね?」 「……仕返し……?」 一体何のことか、その時アルトはわからなかった。 今まですべて、自分の過去さえも見透かされていたアルトは、否定することも笑い飛ばすことも怒ることもできなかった。一体どういうことなのか考える。 仕返し、何を、誰に? 「貴女が覚えていなくても、私は覚えています。あの時、確かに私に……」 猫がちょっと笑ったように目を細めたところで、どこからか声が響いてきた。 悲鳴だ。 『きゃあああああああああ!』 『なんでこんなことに……いやああああああ!』 『やめて、お願い、やめて……!』 いくつもの。苦痛から発される女性の悲鳴。 アルトは思わず耳をふさぐ。 悲鳴から意識を遠ざけるかのようにアルトは考える。 ――貴女が覚えていなくても、私は覚えています。あの時、確かに私に…… 「あの時、あの時っていつだ。思い出せ、思い出せ、思い出せ!」 すこしでも悲鳴をかき消そうと、思ったことをそのまま口に出す。 しかしそんな努力もすべて意味をなさず、アルトの耳に声が入っていく。 『お前がいなければ!』 『どっかいけ! 消えろ!』 『迷惑ばっかりかけて』 悲鳴はやがてアルトに対する言葉が聞き取れるようになってきた。 それが自分の知っている人の声が多いということもわかってきた。 artの面々の声も、聞かなくなって久しくなった兄の声も、もう忘れたはずの両親の声も、そして。 『だから、言っただろ。なにもかも全部自分のせいなんだって』 自分の声も。 アルトは耳をふさぎ頭を振り、無駄な抵抗を続けていると、ふっと思い出した。 最初に猫から目玉を奪われた時。 ――お前、あいつらに仕返ししてくれにゃー。 ざっと血の気が引く。言った。確かに、言った。 「……まさか、……あの時の……」 アルトがつぶやくと猫はゆらりと尻尾を揺らした。アルトは小刻みに首を横に振る。 「そんなの、望んでない。あれは、言葉の綾、だろ」 「でも、貴女は一人で生きたいんでしょう? だって、貴女は人の枷になってしまう自分が嫌いなのだから」 心の中をぴしゃりといわれ、アルトの顔色がさらに白くなる。 「どこまで知っている」 「知っていますよ。貴女が原因で両親は我が子の成長を見られず、寂しく死んでしまったことも。お兄さんが、貴女のせいで倒れてしまったことも」 アルトの顔が険しくなる。悲鳴はまだやまない。 「さあ、どうしますか?」 どこから現れたのだろうか。それとも、ずっとそこにいたのか。気づかなかった。 気づけば猫の頭上には赤い本がまるで神のように浮いていた。 この子にとっては神のような存在なのだろうか。 否、あれは神ではない。 恐怖や気味悪さより、突然のことに頭の処理が追い付かなかった。 なにより、アルトの思考を奪ったのは、その禁書の表紙の色。 赤。 アルトの働く図書館に潜み、そして交戦したあの禁書も赤い表紙を纏っていた。 artが探していて、アルトが彼女たちに巻き込まれるきっかけとなったあの禁書。 まさか、こんなところであっさり見つけるなんて。 一冊の本がアルトの目の前に浮かんでいた。 微かに鈍い光を放ち、禍々しい雰囲気が漂っている。 それはどう見ても、間違いなく、禁書だった。 「願いはなんですか」 禁書は胡散臭いくらい丁寧な口調でアルトに語り掛けてきた。 それはあの時の声だった。 ――ニガサナイ 頭に響いたあの時の声。 やはり幻聴や気のせいじゃなかったのだ。 アルトはびくりとするが、それ以上は動かない。否、動けない。 「貴女は私に選ばれました。なんでも願いを叶えましょう。願いは何ですか」 何故自分の前に姿を。いやそれよりも、捕まえられれば。 戦う? 禁書と? そんなの無理だ。逃げるべきかもしれない。 助けを呼べば。この辺には人がいないのに、誰に。どうやって。 人を消したのもこいつなのか。 とにかく、足元の猫だけでも逃がさなければ。 頭の中では絶えず思考が巡っているのに、脳はそれでいっぱいいっぱいなようで、体に命令を下せない。 禁書は繰り返す。 『さあ、願いを教えてください。どの願いがいいのですか?』 どの願い? まるで選択肢があるような言い方だ。 アルトは静かに禁書の出方を伺う。 もしかしたら何かしらのヒントになるかもしれない。 禁書は単調な感情の見えない声で言った。 『今一緒にいる者たちから貴女の記憶を消しますか?』 ドクンとアルトの心臓が跳ねる。偶然か。 『両親を蘇らせますか?』 まさか。どうして。 『それともご存命のお兄様に大金? 加護?』 みるみるうちにアルトの顔が青くなっていく。 どうしてそんなに正確に私の願いが分かるんだ。 禁書は顔もないくせに、にやりと笑いながらとどめの一言を放つ。 『――嗚呼、貴女をなかったことにする事がお望みですか?』 「……っ!?」 突然何か恐ろしいという感情が戻ってきたアルトは、思わず後ずさりをし、ついに逃げ出した。 「遠慮なさらなくていいのに」 そんな声が追ってきたが、猫や禁書は追って来る気配はなかった。誰が遠慮なんて。

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