第八章 第四話「……私、どのくらいぼーっとしてた……?」

彼女は人混みの中にいた。 ざわざわと音が鼓膜を震わせる。 あの後、走って走って、やみくもに走って、なんとか大通りに出ることができた。 人がいる。 ざわざわとにぎやかなイナエの街に、アルトはホッと胸をなでおろし、そのままヘナヘナをうずくまった。 商人も声を張っている。 道行く人たちが他愛のない話に盛り上がっている。 空では鳥が鳴いている。 現実感のある音達にアルトは安堵して、そのまま放心していた。 どのくらいそうしていたのだろうか。 「大丈夫ですか?」 後ろから声をかけられる。 その声に過剰に反応し、勢いよく顔を上げると、そこには心配そうにアルトを見下ろす顔があった。 「……らみぃゆ?」 「はい、らみぃゆです。大丈夫ですか?」 「……私……?」 「あの、アルトさん、こんなところで座り込んでたら危ないですよ?」 らみぃゆはそう言って、アルトが立ち上がるのを手伝った。 パン、パンとアルトの服についたほこりや砂を簡単に払ってあげる。 そんならみぃゆを見て、アルトはすこし正気を取り戻した。 軽く頭を振る。 「……私、どのくらいぼーっとしてた……?」 「え? ど、どうでしょう。私がが見つけた時はもうそんな感じで……」 「そうか……」 きっとそう長い時間ではなかっただろう。 「あの、大丈夫ですか?」 らみぃゆは上目遣いにアルトの顔を覗き込んできた。 その純粋な心配が伺えるみどりの瞳を見て、アルトは思った。 彼女がいればミィレと連絡が取れる。 禁書の件はたとえ幻覚だったとしても報告するべきだろう。 ……幻覚だったらよかったが、記憶を反芻してもあれはどこまでも現実だった。 「大丈夫だ。……それより、ちょっと頼みがあるんだが、ミィレに連絡を……」 「言ったでしょう?」 アルトの声を遮るように、頭の中を禁書の声が響いた。 時がほんの一瞬止まった気がした。 背中がゾワリとする。 上を見上げると、真上に本のページが見えた。 「逃がさないって」 上から黒い塊が降ってきた。一瞬で目の前が真っ黒に染まる。 アルトが持っていた荷物が全て落ち、紙袋からレモンが飛び出して、足元に散らばった。 気づけばアルトは真っ黒に染まっていた。 足元も、服も、肌も。まるで影の塊のようないでたち。 ボタボタと黒い液体がしたたり落ちる。 「へっ、な、何が……アルトさん、大丈夫ですか?」 突然のことにらみぃゆが戸惑いつつも、あわててハンカチを出そうとポケットを探った。 そんなものでどうにかなるはずもないと分かっているのだが、そのよくわからない黒が目にでも入っていたら大変だと思ったのだ。 アルトは突然のことに呆然としているのか、固まって動かない。 真っ黒になったアルトを見るのは、二回目だった。 自分の体には不思議と黒がかかっていないことを疑問にも持たず、らみぃゆはかわいらしい絵柄の付いたハンカチを取り出した。 アルトの顔を拭おう為に彼女の頬に手を伸ばす。 「アルトさ……ひぇ!?」 その時、どこからともなく、らみぃゆの身長くらいある大きな手がにゅ、と突き出してきた。 真っ黒で大きな掌。 手はらみぃゆをつかみ、悲鳴を上げる彼女を持ち上げた。 アルトはその様子を呆然と眺めていた。 目の前でその光景が起こっていることは、確かに見えているのに、思考が働かない。 目の前で起こっていることが理解できない。 まるで寝起きのまどろみの中で金縛りにあっているような。 脳が無理やり押さえつけられているような感覚。 「やめ、てくださ……!」 圧迫されて苦しそうにらみぃゆがうめく。 その声さえも脳を素通りする。 らみぃゆは混乱した頭でどうにか抜け出そうともがく。 そして力を振り絞って、うつろな瞳で捕らわれのらみぃゆを眺めるアルトに訴えた。 「……やめてくだ……っ! やめてください、アルトさん!」 「……?」 自分の名前が呼ばれ、一瞬瞳を動かした。 ただ、それだけだ。 らみぃゆを苦しめている巨大な黒い手は、どう見てもアルトの背中から生えているように見える。 捕まえている手と両翼になるかのように生えたもう一つはこぶしの形に握られていた。 しかし、当のアルトは自分の姿すら自覚していない。 異変に気付いた人々は一斉に逃げ出す。 商人たちはあわてて店を閉め、露店商は荷物を素早くまとめ始める。 あっというまに人は消えてしまった。 らみぃゆは顔をゆがめてぼろぼろと涙を落とす。 「助……け……ミィ……さ……みりぃ……!」 バタバタと足を動かすが、力は強まる一方。もう息ができない。 もうあきらめかけたその時。 プラチナブロンドの髪をなびかせソフィアがあらわれた。 一気に距離を詰めると、愛用のレイピアで巨大な腕が途中で断ち切られた。 断ち切られた先の拳は形を保てなくなり、どろりと液状化しする。 必然的に地面に落ちるらみぃゆを、ミィレが空中で受け止めた。 「……セーフ!」 「ミィレさ……!」 慌てて一気に酸素を取り込もうとして、らみぃゆはむせ返る。 ゆっくりと降り立つと、みりぃとジェンが丁度駆け寄ってきた。 「らみぃゆ! 大丈夫!?」 みりぃがらみぃゆの背中を擦る。 「う、うん……大丈夫……っ」 潰されそうになった以外、目立つ怪我がないかミィレが確認していると、後ろでボタタ、と鈍い音が聞こえてきた。 振り返ると、ソフィアがもう片方の黒い腕を切り落としたところだった。 パワーはあるが、スピードは大してないらしい。 後にソフィアは寝ぼけたような動きだったと語る。 切られた拳はすぐに修復したが、往なす程度であればソフィア一人で問題はないだろう。 万が一に備えて構えているジェンの後ろで、ミィレはらみぃゆの応急処置を完了させた。 幸いかすり傷しかなかった。 「それで、アルト、なんでああなってんの?」 ミィレの質問にらみぃゆが困ったようにかぶりを振った。 「それが……突然のことで私にもわからなくて……」 「そっか」 わからないことが分かったのに満足したミィレはそれ以上の追及はしなかった。 「ったく、なんか騒がしいと思ったら……」 めんどくせえ、とつぶやいたジェンは、片手でメガホンを作って叫ぶ。 「おいツッコミ! いきなり超展開ぶっこんできてんじゃねーよ! 読者どころか登場人物のわっちらまで困惑するだろ!」 その言葉にアルトの注意がジェンに向く。 それによってできた隙にソフィアはすかさず懐に飛び込もうとしたが、寸でのところで黒い拳が防がれた。 惜しい、とソフィアは少し嬉しそうにつぶやく。 その後ろで、ジェンの言葉にノッかったミィレもヤジを飛ばしはじめた。 「そーよそーよ! そんな闇落ち中二病みたいな恰好しちゃってさ! ツッコミ放棄しないでよね!」 「お前がボケるとわっちがツッコミに回んねえといけねえだろ!」 その間もソフィアはアルトの隙を見つけて切りかかってくる。 ぼんやりとしていた頭の中に、ジェンとミィレのヤジと、ソフィアの容赦のなさすぎる攻撃が頭の中をぐるぐるまわる。 「アルトはツッコミのほうがおもしろいんだからー! まだツッコミ役がボケ始めるにははやいんですけど!」 「お前は巻き込まれ不憫系な主人公だろうが! ブレてんじゃねえよ!」 「……お」 一瞬のつばぜり合いになったソフィアを力任せに吹っ飛ばすと、怒鳴り始めた。 「お前らなあ! 誰がボケてんだよ!? 私は真剣だわ!! メタい発言もしてんじゃねえ!!!」 それは、いつものアルトだった。 怒った顔も、怒鳴り声も、その調子も。 思わず攻撃をやめたソフィアをびしっと人差し指を突き付ける。 「つーかソフィア! てめえもっと手加減……を……」 しかしその途中でふっと、言葉を途切れさせた。 しばし電源が落ちた玩具のように無表情で固まったかと思ったら、また攻撃を始めた。 ソフィアは慌てず往なして注意を引く行動を再開する。 「……とりあえず、中身はツッコミのままだな」 「闇落ちしてる割にノリ良すぎだよね。おもしろーいにこにこ。もっと挑発したら反応するかな」 「お前らこれ持って引っ込んでろ。ちょっとヤバそうだ」 ジェンは、道中でソフィアに押し付けられたイェピカの目玉の入った紙袋を、みりぃとらみぃゆに渡した。 受け取りつつも気になるのだろう、おろおろする背中を押して、逃げるように促した。 二人はうなずいて遠ざかって行く。 「ありがとーねジェン。ついでにわたしも逃げていい?」 にっこりと笑って言うミィレは、もしも子分のらみぃゆが被害にあっていなかったら遠くから見物をしていただろう。 ジェンも同様だ。 戦闘の機会をかぎつけたソフィアはともかく、二人が駆け付けたのは遠くから被害者が出そうなのを見つけたからだった。 決して示し合わせたわけではないのに集まって、きちんと自分の役割を理解して行動することができるのは、いつもの彼女達からは想像できない。 本人たちに言わせれば、手を抜くところは抜いているだけ、とでも言いそうだが、この場に正気なアルトがいたら、 「ちゃんとできるなら普段からやれ!」とツッコミを入れていただろう。 「どうせならわっちも逃げたいんだがな……」 切り落とされた黒い液溜まりを見ながらジェンがぼやく。 「なにこれ? スライム?」 スライムとはご存じの通りゼリー状のモンスターだ。 大抵のスライムはどこの世界でも共通で弱いが、エレフセリアでは稀に斬ってもすぐにくっつくスライムが出現する。 その黒い液体も、少しづつ少しづつ動いてアルトの方へ戻りつつあった。 彼女のもとまで戻ればくっついて斬られた拳が復活するのだろう。 ジェンが恐る恐るつついて、指でこねてみる。 想像通りどろりとしていた。 「……これ、イェピカの目玉の汁じゃね?」 ジェンが告げる。 専門職というわけではないため断言はできないが、おそらく間違いはないだろう。 「イェピカの目玉の汁? それの魔力の大量摂取で暴走してるってところかしら」 アルトの攻撃をソフィアは危なげなくかわしながら、会話に参加してきた。 一撃でも受ければ大惨事になるが、そんな不安はないらしい。 「知らんが多分そうじゃね?」 ジェンがソフィアの憶測に憶測で返事をした。 「それなら、これを洗い流せばいいんだよね?」 しゃがんでいたミィレがいきなり立ち上がり言った。 突然の動きに驚いたジェンが「おぅ!?」っと一瞬悲鳴ほどもない声を上げる。 ミィレは笑顔で手に持っていたものを見せる。 「ここに丁度レモンもたくさんあるし!」 いつの間にかレモンをすべて拾い上げていたらしい。 「イェピカの目玉の汁による暴走にしちゃ、様子がおかしいが、まあとりあえず洗い流すのは賛成だ」 ジェンは気を取り直してレモンの入った紙袋を受け取った。 「量は足りるだろうが、どうするんだ? 一個ずつ絞るのはめんどくせえよな」 「そうだねぇ……」 いくらソフィアが注意を惹きつけているといっても、今のアルトに一個ずつレモンを絞ってかけるなんて地味な作業をひたすら続けていたら怪我は免れない。 というかそんなことしていたら日が暮れる。 「もっとどうにか一気にできればいいんだが」 「……ひらめいた!」 ミィレが人差し指をピン、と立てて腕を真上に上げた。 頭の上に電球が見えるようだ。そのまま上げた人差し指を一つの通りに向ける。 「ねえ、あっちににいい店あるんだけど」 「いい店?」 「この前パフェ食べ行ったところ、覚えてるよね? そこまでアルト連れてきて! ジェン。行くよ!」 そういってミィレは先行して飛び立った。 ジェンの追いつける速度であるあたり逃げようとしているのではないのだろう。 「おい、ソフィア!」 ジェンはソフィアに注意を促すと、ソフィアは聞いていたと言う代わりに片手をあげた。 ソフィアは立ち位置の意識を変える。 先ほどまではとにかく避ければよかったのだが今度は誘導しなければならない。 じりじりと後ろへ下がり、アルトの進行方向を調整する。 先日起こったテロ騒動の影響か、エレフセリアの慣れなのか人々はすっかり避難しきっていて、店の近くまで誘導はそこまで時間を要さなかった。 しかし、ここまで来たはいいがどうやって入店しよう。 ドアを開けるなんて動作をしている間に捕まるのは目に見えている。 かといって蹴破って入るのもどうだろうか。 ソフィアが迷ったその時、ドアが勝手に開いた。 「準備完了! こっちこっち!」 ドアを開けたミィレが手招きをする。 ソフィアがじりじりと誘導し、アルトを店のドアの前に立たせた瞬間、ミィレはすばやく指示を出した。 「伏せて!」 ミィレとソフィアがしゃがむと、アルトに見えたのはカバの顔。 次の瞬間、そのカバはレモンの汁を吐いて、アルトにぶちまけた。 □□□□ アルトは夢で空から落ちたような感覚に背中をゾクリとさせた。 はっと気が付くと、カフェの前でレモンまみれになっていた。 レモンだと分かったのはベタベタする液体から、さわやかな香りがしたからだった。 何が起きたのか一瞬理解できず呆然としていると、目の前にカバの顔としゃがんだミィレとソフィアがいることに気が付いた。 「ヤッホーアルト。お目覚め?」 「……なにがあったんだ?」 アルトはあたりを見回して呆けた声を出した。 伏せていたソフィアがガバリと起き上がり、アルトの手を取った。 そして、かつてないまでにキラキラと輝くオッドアイで、熱い視線を向けて来た。 「貴女の実力はこんなもんじゃないはずよ。是非またやりましょうね!」 「冗談じゃねえ! わっちはもうやんねえぞ!」 店の奥から出てきたジェンが怒鳴り、「だからわっちはツッコミじゃねえんだって……」と、うなだれた。

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